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駒沢裕城へのインタビュー。日本を代表するペダル・スティールギター奏者がその半生を語る。「これだけ可能性がある楽器という事が、伝わっていない」

はっぴいえんどの『風街ろまん』への参加をはじめ、はちみつぱいや大瀧詠一、松任谷由実、矢野顕子など数多くのミュージシャンのレコーディングやライブに参加してきたペダル・スティールギター奏者の駒沢裕城。同氏がミディよりリリースした3作品が5月18日(木)、デジタルにて配信開始となりました。

今回はそんな駒沢氏へのインタビューを行い、これまでにミュージシャンとして辿ってきたキャリアや自身の音楽性、楽曲制作の哲学に至るまで、包括的に語ってもらいました。駒沢氏の音楽がさらに深く楽しめる内容となっているので、是非ご一読ください!

駒沢裕城氏

――1950年3月9日にお生まれになって、1971年にははっぴいえんどの『風街ろまん』の録音に参加されてますよね。年齢だと若干20〜21歳くらいだったのでしょうか。今の感覚だとデビューも早いと感じます。そこに至るまでどのような音楽活動を展開されていたのか教えてください。

「大学の軽音サークルでカントリー・アンド・ウェスタンをやっていました。大学1年の夏頃に先輩から勧められてスチールギターに触れました」

――それまではギターを弾いていたんですか?

「サークルではベースを弾いていて、そこからペダル・スティールギターに変更しました」

――そうなんですね。ペダル・スティールギターはギターと比べて奏者も少なく、習得が難しい印象があります。他にもベースを弾いていたとのことですが、弦楽器にはすでに馴染みがあったからこそペダル・スティールギターも演奏できた、というのはありますか?

「中学生の頃から親父のギターを弾いていたので、馴染みはあったと思います。親父が弾いてるところはほとんど見たことないんですけど...。箪笥の上に妙なものが置いてあって、『これなに?』って聞いたら、『ギターだよ』って。そこでチューニングとかドレミのポジションを教わりました。学校でもドミソ、ドファラとか和音を習うじゃないですか。ギターをガチャガチャ弾いてるのを見たときに、『なるほど和音を弾いてるんだな』と思って、ギターでドミソのポジションを抑えてコードを見つけたりしていました」

――最初からタブ譜(※1)ではなく、譜面で覚えていたのでしょうか?

「タブ譜やコードブックは見たことなかったですね、あることも知らなかった。ほとんどそうやって和音を見つけていました」

※1 通常の楽譜では音符やリズムが示されているが、タブ譜ではギターの弦とフレットを線と数字を使って表している

――独学でギターを学ばれて、大学入学後にペダル・スティールギターを始めて、1〜2年足らずで『風街ろまん』に参加されたということですね。

「参加は大学3年の時だから、(ペダル・スティールギター歴は)大体2年ちょっとかな?」

――2年でレコーディングに参加してしまうほどの技術を習得していたと。すごいですね。

「大学の後輩が小坂忠さんの知り合いで、僕のことを忠さんに紹介してくれたんです。それで忠さんがちょっと興味を持ってくれて、そこから細野さんとか色んな人を僕に紹介してくれました。当時僕はペダル・スティールギターではカントリーしか弾いてなかったです。しかも耳コピで全部やっていて。自分が上手いか下手か分からなかったけど、大学対抗でカントリーバンドのジャンボリー的なのがあった時に、(自身が)目立ってきたかな?とは少し思っていました。どのバンドにもペダル・スティールギター奏者はいたけど、僕は色々と新しいことやってたのもあるのかな」

――そこで頭角を現して、忠さん経由で細野さんをはじめ、はっぴいえんどのメンバーたちと知り合い、『風街ろまん』に参加されたんですね。

「そうですね。大瀧さんから事務所経由で『空いろのくれよん』への参加オファーがきました」

――ギターやベースもやっていた中で、ペダル・スティールギターにフォーカスした理由は何でしょうか?

「理由は特に無いですね。大学の時はバンドの中で誰もやってなくて、ミーティングした時も誰もやりたいと手を挙げなくて...。みんな僕のことみてるし、これは『やれ』ってことなんだなと思って。なんとなく自然と、流されるまま始めました。でもその後、仕事として弾いている中で、目覚めた部分はありますね」

――周りから求められていたから、という部分もあるんでしょうか?

「当時はスライドギターなどの『滑りモノ』が出てきた時代でした。ビートルズのジョージ・ハリスンやエリック・クラプトンがスライドギターを弾いていて。そして当時はアメリカを中心にペダル・スティールギターが徐々に使われ始めていた時代でもあったから、そういった滑りモノができる人をさがしていたんじゃないですかね。ペダル・スティールギターだろうとスライドギターだろうと、『それっぽいことやってくれ』という感じで。当時、ペダル・スティールギターやスライドギターなどの滑りモノは、通常それぞれ専門のミュージシャンに頼むのが一般的だったのですが、『駒沢は滑りモノなら何でもできるだろう』というぼんやりとした認識で専門外のスライドギターも含めて、何でもやらされていました(笑)。

右も左も分からない大学3年の時に、突然こうした世界に入って、参考資料を元に作業をする...。そもそも自分がどんなタイプのミュージシャンなのかも分かっていなかったし、『こういうタイプではありません』といったことも言えず、当然のことだと思ってやっていました」

――『風街ろまん』に参加された頃は、他にも色々と「滑りモノ」のお仕事をされていたのでしょうか?

「そうですね。『風街ろまん』のレコーディングを終えた後に『小坂忠とFour Joe Half』を結成して、『もっともっと』というライブ盤を発売してからいきなりオファーが増えました」

――大学在籍中からミュージシャンとしてご活躍されていたということかと思います。就職活動などもせずに、そのまま音楽一本でやっていくことになったのでしょうか?

「結局大学はやめたので、そこからは本格的にミュージシャンとしてやっていこうと考えていました。流されるタイプなので...(笑)」

――これまでさまざまなアーティストとコラボレーションをされていて、ジャンルも多岐にわたりますが、「こんなアーティストとコラボしたい」「こんな音楽がやりたい」といったこだわりはありますか?

「特にないですね。だけど、当時からハードロックやプログレッシブ・ロックといったフワっとしたジャンル分けがあるなかで、僕の場合はフォークからのオファーがほとんどでした。そんな中でユーミンの1stアルバム『ひこうき雲』に参加した時は、カントリー・ミュージックのアプローチでは対応できず、僕なりにロック風にニュアンスを変えて取り組みました」

――自分のスタイルを確立されるというよりは、さまざまなアーティストに合わせて柔軟に試行錯誤するのも好きということでしょうか?

「というか自分のスタイルを持っていなかったですね。考える余裕も無かったし...」

――これまでコラボレーションされたアーティストや、参加されてきた楽曲の中で、印象的なものはありますか?

「72年から74年まで『はちみつぱい』で活動していた時は、自分自身のスタイルを見つけるためにとにかく色々やっていました。自分が誰なのかを見つけるための仕事が多かった。だけどその中で『サイケデリック』という、全員で即興の音楽を作った先にどんな世界があるのか、やってみなければ分からない、というスタイルにとても惹かれて。ペダル・スティールギターでカントリーでもブルースでもロックでもない音楽を弾くようになって、『これは可能性がある、面白い楽器だな』と感じました」

――はちみつぱいとの出会いが転機だったんですね。

「転機でしたね。それ以前に一緒に演奏していたFour Joe Halfや、細野さんを中心としたティン・パン・アレーの人達は、職人的な完成度を持つ人達で、その中にペダル・スティールギターを始めて2年ぐらいの素人として混ざっていたので、とても顔色を窺いながらやってました。だけどはちみつぱいでの活動を通じて即興音楽の世界に飛び込むことで、自分のアイデンティティが少し見えて来ました」

――それが楽しかったんですね。

「とても、そして当時は基本的に誰かからレコーディングを頼まれても、即興的に対応するしかなくて…。大まかなビートやコードは譜面で示されていても、細かい部分はお任せという場合が多かったです。特にペダル・スティールギターは誰もフレーズの指定なんて出来ないから、『好きに弾いてください』みたいなことが多くて(笑)。とりあえずやってみて、『さっきの演奏が良かったからココを活かして…』みたいな意見を周りからもらって、徐々に仕上げていく感じでした。あと、はちみつぱいでの活動以降、78年までの4年間の間、大瀧詠一さんとたくさん仕事をさせてもらって、それは経験としてとても大きなものになりました。大藏さん(ミディの創業者)ともその当時から付き合いがあります」

――当時のいわゆるニューミュージックは今でも世界的に注目されています。ミディでも矢野顕子さんや坂本龍一さんの70〜80年代の作品がヨーロッパ・北米でリイシューされていて、好評です。当時は大瀧詠一さんや松任谷由実さん、細野晴臣さんといったアーティストたちが同じコミュニティで活動していて、改めて「すごいな」と思います。その創造性やエネルギーの源泉は何だったと思いますか?

「まず、当時は日本の音楽業界が作ってきた音楽と、我々が聴いていた音楽のギャップがとても大きかった。日本の歌謡曲は作曲者、作詞家、アーティストが全て別々だったけど、アメリカやイギリスでは全く違って、アーティスト主導で音楽が作られていた。僕らは日本でもそれをやろうって事で、細野さんたちはアメリカやイギリスを追いかけていて、それも単に音をコピーするのではなく、アーティストとしての姿勢やアイデンティティをコピーしていた。細野さんだったら、チャック・レイニーのソウルフルなベースをマスターして、フォークの中に取り入れたり…。それで技術も急激にアップしたし、オシャレにもなっていったという感じですかね、吉野金次さんとかエンジニアの方も力になってくれて現場から変えていきました」

――細野さんを含めた若い世代が欧米のやり方を追いかけながら、少しずつ業界のスタンダードを変えていったのですね。

「そうですね。大瀧さんもFEN(※2)しか聴いてなかったと言っていました。アメリカを追いかけてたんですね」

※2 Far East Network=極東放送網。現AFN=American Forces Network=米軍放送網

――駒沢さんの中でも最初の影響は洋楽だと思いますが、日本人のアーティストとしてのアイデンティティに向き合った時期はありましたか?

「音楽を聴くようになったのは小学校高学年の頃だけど、僕はカトリックの家庭の生まれだから小さい頃から家族で教会に行っていました。だからおそらく原体験は教会音楽だと思います。あと、『朝の名曲』というラジオでクラシックを聴いたり、唱歌をやったり...親父も歌が好きで、当時の流行歌も混ざってました。そういった経験、特に教会の音楽は大きいですね。日曜日にみんなで合唱をして、教会の中で聴くサウンドには大きな影響を受けたと思います。今考えると贅沢ですね」

――音楽の原体験は教会なんですね。

「ラジオを聴き始めたのはビートルズがデビューする1〜2年前の小学校5年生の頃。当時のアメリカンポップスにとても影響を受けました」

――教会音楽やクラシックが土台にある中で、ポップスにもすぐに馴染めたのでしょうか?

「そうですね。特に兄弟から影響を受けました。姉が2人いるんですけど、やっぱり女の人はそういうところに興味が向くのが早かったですね。ビートルズがデビューする前後の時期からポップスの世界に入るようになりました」

――駒沢さんの1stアルバム『Feliz』のリリースが1991年ですが、80年代にはまだ自身の作品をリリースするには至らなかったのでしょうか?

「曲はちょこちょこ作っていたんですけどね...。当時の録音技術というのはアナログの幅2インチテープ、16トラックでね。しかもそれはでっかいスタジオにしかなかった。僕らが自宅でできるのはテープレコーダーを再生しながら、それに合わせて演奏して、別のテープレコーダーに録って…というようにテイクを重ねていくしかなかった。(各パートのレベルの)バランスもそれで決まっちゃう。音楽を作りたくても方法がなかったんですね。やっとアイディアを具現化できるようになったのは、4トラックのカセットMTR(マルチトラック・レコーダー)を購入した時です」

――そこでやっと録音環境が整って、自分のイメージした音を表現できるようになったんですね。となると、1stアルバムは自主制作なのでしょうか?

「そうですね。『Feliz』の時はエンジニアの知人から1/2インチテープ、16トラックの民生用MTRを借りて自宅で録音したのですが、完成してリリースするまで2年近くかかったと思います。アナログなのでコピペできないし、間違えて録り直したくても一人でやってるからパンチインできなくて、最初から全部やり直す、という作業を繰り返していました」

――制作で苦労しただけに1stアルバムへの思い入れは強いのでしょうか?

「そうですね。自分自身の想いをぶち込んだ作品です。70年代の終わりから80年代が過ぎ去るまでの間の、自分の中で抱えていたイメージを詰め込みました」

――その後、2000年にミディからセカンドアルバム『ガーデン・スケッチ』がリリースされました。1stアルバム以降約10年かかった経緯と、ミディからのリリースを決められた理由を伺いたいです。

「ミディを選んだというより、長い付き合いのある大藏さんが、僕の音楽の面倒くさい作り方を待ってくれるというか…許してくれる人だったんですね。それがミディからリリースした理由の一つです」

――1stアルバムでそれまでの想いを詰め込んで、また新たにアルバムを作るのはとても時間がかかったといいうことでしょうか?

「そうですね。1stアルバムのリリース後、その収録曲をライブで何とか再現できないかと動いてくれていた人もいて...それが大変でした。16トラック使って、録った音のほとんどがペダル・スティールギターという音楽をどう演奏するのか。ペダル・スティールギター奏者を16人用意する訳にもいかないので、色々工夫しました。例えば当時付き合いのあった管楽器のグループとか、バイオリン奏者に頼んだり…。ベースとかは古い付き合いの人がやってくれました。工夫をしてライブで再現するところに力を注いでいました。その後しばらくしてコンピューターを使った音楽の作り方を覚えたおかげで、ミディからのリリースを実現することができました」

――今ではコンピューターを使って音楽を作っているんでしょうか?

「そうです。常にハードウェアの進歩と共に僕の音楽も進歩する感じですね」

――駒沢さんの作品で聴かれるペダル・スティールギターのサウンドはとてもやわらかく、幻想的なトーンで、透明感が溢れていて、とても特徴的だと思います。そのような独自のサウンドメイクはどのように生まれたんでしょうか?

「はちみつぱいとの活動で形成されたのもありますけど、決定的になったのは1978年のとあるシンガーソングライターのツアーで、これ以上業界にいたくないと感じた経験です。僕自身の音楽的な衝動と業界が指向していたものが決定的に合わなくて...業界とはおさらばして、自然食業界に入りました」

――自然食ですか!?

「まったく違う業界ですけど(笑)。あがた森魚くんに教わった『玄米菜食(マクロビオティック)』を提唱した櫻澤如一さんの思想に惹かれて、その普及団体でボランティアをしたのがきっかけです。1980年に屋久島であがたくんのご家族の開墾の手伝いをしたときに、非番の日に開墾中の農場で、一人、座って瞑想したことがあるんです。最初、雑念によって耳からの情報に集中できなかったのですが、しばらくして、自分の中で耳がアクティブからパッシブ(受け身)に切り替わった瞬間があったんです。その時、とてつもなく美しい世界が広がりました。目は閉じているんですけど、風の音や鳴き交わす鳥の声が作る何でもない景色が空間的な広がりを伴って聴こえる、その美しさに圧倒されたんです。その時にそれまで、判断というフィルターを通して音を聞いていたんだということを知ったんです。耳と空間はすごくリンクしていて、耳の中に空間を認識する三半規管がある理由が分かったんです。僕らが音を表すときに言う高いとか大きいとかは、空間を表す言葉なんです。空間で起きた現象として音を認識している。このシンクロが分かった時に、僕のやるべきことが見えてきて…。その時僕はそれまで作った音楽はまるで、屋久島の美しい自然の中に建てられた醜い看板ようなものだと感じたんです。それに対して今まで嫌悪感を抱いていたんだと気が付いて、また東京に帰って音楽を作ろうと決心しました。遅まきながら70年代に自分自身のアイデンティティを見つけ始めて、80年代の30代初めの頃にヒントが見つかったんです。論語に『三十にして立つ』という言葉がありますけど、まさにそうでしたね」

――音楽業界から離れ、屋久島での経験から、再び音楽を始めたんですね。

「そうです。音楽が天職だということが分かりました。音楽をやらないと僕は死ねないと言うか...(笑)」

――それが『Feliz』のリリースに繋がる訳ですね。スティールギターは伴奏よりも主旋律を演奏することが多い楽器だと思いますが、どのように作曲されているのでしょうか?

「自分の中で起こっている音を実際に現象化させていくということなんです」

――それは屋久島での瞑想を通じて、自分の中から湧き上がる音への感度が高くなったということでしょうか?

「自分の中に触手がないと受け取れないんですよね。これは美の価値基準のことだけど刺激が外からくる場合も当然あります。僕の場合は色んなアーティストの曲を聴いたり、アントン・ブルックナーという大好きな作曲家の音楽を思い出す事でイメージが広がったり…ただそれは、楽器で表現する作業の中で作る事が多いですね。ペダル・スティールギターは、和音と同時に歌も歌えるとても珍しい楽器で...そんな楽器はほとんどないんじゃないかな。和音が弾ける楽器はポルタメント(※3)やビブラート(※4)の表現ができない。逆に、弦楽器や管楽器といった歌える楽器はそのどちらもほとんどが基本、一つの音しか出せない。でもペダル・スティールギターは同時に両方できるんです」

※3 音を滑らかにつなげる演奏技法
※4 音の揺れを生み出す演奏技法

――ペダル・スティールギターは多くの人が思う以上に表現の幅が広く、奥深い楽器なんですね。

「あまりにも難しくて弾く人も少ないけど、それに気づいている人も少ないですね。これだけ可能性がある楽器という事が、伝わっていないんだと思います」

――ミディから出した3rdアルバム『私のモーツァルト』は全編モーツァルトという異色の作品で、ご自身が寄せたコメントの中で『ポップスとして聴いてほしい』とおっしゃっていたのも印象的でした。数あるクラシックの中からモーツァルトを選んだ理由や、ポップスとの共通点について伺いたいです。

「なぜモーツァルトかというと、アルバム制作の年がモーツァルトの生誕250年記念の年だったからです。でも結局、年明けのリリースになっちゃって…そういう意味ではモーツァルトでなくても良かったんですけどね。アルバムを作るにあたって、モーツァルトという人物に出会ったという感じがします。奥深い世界から、おちゃらけた世界まで...ものすごく幅の広い人ですよね。実は息子の誕生日も彼と同じで(笑)。まあそれは関係ないけど。モーツァルトは古典派の作曲家として有名ですが、当時の音楽形式はバロック時代のポリフォニー(※5)から、ポップスに近いモノフォニー(※6)へと移行していた時期で...そういう意味で彼の音楽には伝統的な感じと、自由な感じのどちらもある。時代の交差点みたいな要素が彼の音楽にはあって、彼自身も感性の振れ幅が激しい人であったと僕は思うんですよね」

※5 複数の独立したメロディが同時に演奏される音楽のスタイルや技法
※6 一定の和音の上に単一の旋律が演奏される音楽のスタイルや形態

――昔からモーツァルトを聴いていたのでしょうか?

「昔から聴いていました。でも惹かれなかった。ベートーヴェンやブルックナーなど、もうちょっと真面目な人に傾倒していたんだけど...モーツァルトはそういう意味で軽いんですよね。一般的に聴きやすく、覚えやすい。でも僕はアルバム作りを通じて、彼のことを再認識しました。やっぱり凄いなって」

――ペダル・スティールギターで演奏されたモーツァルト、というのはなかなか無いので、すごく特別な作品だと思います。

「今聴いても、あんなことよくできたなと思います」

――ポップスをやるのとは、また少し違いますよね。

「ポップスやロックは指癖が先行しますからね。特にギターでのブルースのアドリブはほぼ指癖ですよね。『本当に音楽的に選んだ音なのかな?』って気もします。クラシックの場合は音楽先行ですから」

――ミディからリリースされている3作品のアートワークも駒沢さんによるものですが、昔から絵は描かれていたのでしょうか?

「絵は物心つく前から描いていました。今では滅多に描きませんが…。僕は日大の芸術学部出身なんですけど、そのきっかけはジョン・レノンがアートスクールから音楽に転身したというエピソードを真似してみようかなと思ったからです(笑)」

――大学では音楽以外にビジュアルアートもされていたということでしょうか?

「デッサンが好きでよく描いていました。アルバム『Feliz』のアートワークの絵も描いてるんですけど、あれは完全にルネサンス時期のデッサンですよね。ああいうのが好きで…古典的な人間なんですよ、割と」

――ペダル・スティールギターの奥深さや可能性を理解されている駒沢さんだからこそ、若い世代にもその魅力を伝え、コミュニティとしてもっと活性化させていきたいという想いはありますか?

「もちろんあります。何を追いかけるかですよね。外にある目標を追いかける以上、お手本より先には進めないというか。僕より若い30〜50代の人達は、カントリー・アンド・ウェスタンやハワイアンから始めた人は少なくて、いきなり『空いろのくれよん』から始めた人が多い。そういった人の中には最初に聴いたスティールが僕の演奏という人が多いと思うんです。ただ、僕自身は原体験であるクラシックや教会音楽を表現し直すためにペダル・スティールギターに目を付けました。そういう意味で、楽器の可能性をもっと開拓してほしいです。もっと幅広く音楽を聴いてほしいと思います。例えば中東のエスニックな音楽を表現する楽器としてもかなり面白いと思いますし、あるいは日本的な幽玄な世界を表現するのもいいと思います」

――ペダル・スティールギターと言えばハワイアンやカントリーを想起する人も多いとは思いますが、そういった固定概念に縛られずに、その可能性を追求してほしいと。

「もっと違う音楽にも興味を持ってほしいということです。音楽に興味を持つということは、歴史や思想、宇宙的なものに興味を持つことと一緒なんですよね、実は。多くの人は音楽に対する興味の幅がものすごく狭いと思います。音楽はもっと奥が深いという事を認識してくれれば、さまざまなが楽器に興味を持つ人が増えると思います」

――最後に、今後予定している作品のリリースやライブがあれば伺いたいです。

「Four Joe Halfを一時的に再結成して、小坂忠さんの追悼イベントを行う予定です。他には7月23日に神田でソロのライブがあります。あと今後作品のリリースの可能性は大いにあります。ミディさんの方からご提案があればね...『今度はベートーヴェンをやれ』とか(笑)」

インタビュー・テキスト/midizine編集部 写真/駒澤幹太

駒沢裕城(こまざわ・ひろき)
72年、小坂忠とFour Joe Halfでデビュー。73年、はちみつぱい、96年リングリンクスに参加。他にも大瀧詠一、細野晴臣、松任谷由実、ゆず、矢野顕子、あがた森魚、栗コーダーカルテット、吉井和哉など多数のアーティストの録音、ライブなどに参加。また、こうした活動と並行してソロアルバム「Feliz (1991)」など、ペダル・スティールギターの多重録音などによる独自の音楽世界を追求しつつ今に至る。

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