塔2024年2月号気になった歌10首②
「選ばれてない」ときに人は、自らの不遇を武器に、共感を呼び込み、反転攻勢をしかけがち。しかし、その羨望の対象となっている選ばれる側にも、内容は違えど懊悩がある。状況や時代によって、どちらにもなりうるフラットな世界で、不遇で頭がいっぱいなときほど、反対の立場にもあるものを冷静にとらえていたい。
いい。人望を手に入れたいというむき出しの欲望があふれる上の句。そして、人望の獲得に直接寄与することが考えづらいポールダンスの教室に出かけていく下の句。人はみな、複雑な欲望にあふれた生きもので、願うこととそれに向けて努力することは必ずしも一致せず、むしろそれが魅力なのだ。
アンパンマンは、テーマソング『アンパンマンのマーチ』で「なんのために生まれてなにをして生きるのか」というパンチラインは繰り出されているように、大人にとってはガチムチの哲学アニメ。「日」を3度も畳みかけながら、死に向かうまでの連続する日々の一地点としての「今日」をアンパンマンミュージアムで主体はかみしめている。
こどもの柔らかく弾力のある頬をぬぐう動作としての「むいむい」が的確で楽しい。「にっと」に表情が変わっていく様子まで感じられて、子育てのほほえましい一場面が印象的に切り取られている。
「終電で帰る」ことと「水で洗った苺のヘタ」が重ねられている。後者について、「『水で洗った苺』のヘタ」という係りで読むと、そのヘタは、このあと切り落とされて捨てられる存在で、ぼろぼろになりながら、やがては会社から捨てられる運命を感じている終電で帰る主体に重なる。
一方、「水で洗った『苺のヘタ』」と掛かる可能性も否定できない。調べると苺のヘタの周りには豊富な栄養があり、海外ではヘタごと食べることが一般的な地域もあるとのこと。となれば、(日本人が)普段は食べないヘタを食べるためによく洗っていることと、終電まで働かされて一人前になるまで訓練を受けている主体、という考えも浮かんだが、ちょっとこれは考えすぎですね。
日記を書き始める。はじめのうちは、日記を書くことの新鮮さも効して、長い長い文章になるが、続けているうちにだんだん文章は短くなり、しまいには更新されなくなる。という存在である「日記」「のような自分だ」だと主体は言う。直線的な長い比喩に魅力を感じる。
スターバックスのダストボックスは、カップ用に円形の捨てる穴があり、とりわけサイズの異なるカップが捨てられていくと短時間であふれてしまう。そんな積み重ねられたカップに紛れる赤い付箋。赤い付箋は、重要なことを忘れないように目印としてつけられていたものだろうが、ほかのものと一緒にゴミとなってしまっている。言いさしの結句は、主体自身の複雑な感情を示唆しつつ、景に対して読者がそれぞれの感情を寄せる余白がある。
恋人になれる可能性を感じていた理由として「湿疹に同じ薬を塗って」いたということを挙げているところが独創的。確かに、趣味が一緒とか、好きな食べ物が一緒とかより、同じ病気を持っていて、同じ治療法を取っているというのは、親密さの度合いも高そう。一方、病気はいずれ治る可能性のあるものでもあり、永遠性には影を落とす。
おもしろい妄想。この「お前はだめだ」は、否定というより、愛情のあるいじりみたいなもので、主体が、そんな親密な関係性のある人との生活を妄想している。上の句の景は、実際に主体がワンピースをいくつも吊るしながら妄想を広げているようにも読めるし、ワンピースの景すら妄想の景とも読める。妄想の自由は、基本的人権の中でも特に重要なものである。
「来週のサザエさんは、」と切り抜かれると、当たり前のように来週があることが前提にされていることに微妙に心がざわつく。日曜の夕方にサザエさんを見ることで、翌日から学校や仕事に行くことがリアルに想起されて憂鬱になることは、サザエさん症候群と呼ばれている。秋の日が暮れれば、秋の夜が来て、秋の朝が来る。それを何度か繰り返し、来週のサザエさんも、「来週のサザエさんは、」と言っているのだろう。
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