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私の色褪せない原体験~緑のふるさと協力隊を経験して~

過疎化・少子化に悩みながらも地域を元気にしたい地方自治体と、農山村での活動や暮らしに関心をもつ若者をつなげるプログラムとして1994年にスタートした『緑のふるさと協力隊』。

これまでに107市町村で830人以上の隊員たちが活動してきました。

今回は、1994年度の1期隊員として、山梨県芦安村で活動をした佐々木さんに協力隊時代と現在について書いていただきました。




①なぜ、『緑のふるさと協力隊』に応募したか?

新聞の募集記事がキッカケです。

当時、私は仕事のストレスと運動不足解消のために自転車通勤をはじめ、その結果、会社までの道のりで目にした川土手の美しい四季の移ろいに心を癒されて元気を回復することができました。

それからと言うもの、自然や環境問題関連の書籍を次々と読むようになり、その中で出会った一冊の新書の内容に触発され、単純な私は、「このままでは地球が危ない!やるなら農業だ!!」と有機農家への住み込みの研修を決意したのです。

しかし、現実はそう甘くはありませんでした。心身共にひ弱だった私はひと夏で音を上げてしまいました。

自分に悶々と落ち込む日々でふと目にした新聞記事の「緑のふるさと協力隊.第1期募集」の要項に目を釘付けにされた私は、またもや単純に『これしかないッ!!』となり、すぐさま応募し、めでたく合格となった次第です。


②協力隊時代を振り返って。今のわたし。

当時の私は「幼少期の原体験」に最も関心を持っていました。

子供の頃の、近所の皆んなで野山を駆けずり回って遊んだ経験が、その後の人生に大きな影響を及ぼす事を身を持って実感していたため、派遣先は迷わず山梨県の山村留学施設を選びました。

しかし私自身専門的な知識や技能があった訳ではないことに加え、派遣先も山村留学事業が初めてだったことで、毎日が模索の連続でした。
地域の方々に支えられ、助けて頂きっ放しの一年を過ごしました。

もしもこの経験をせずに何も悩まず地元で普通に働いていたとしたら、おそらくこの様な濃密な時間を過ごす事は無かったと思います。

確かに田舎の人間関係は濃く、煩わしさもありますが、他人と関わらざるを得ない社会だからこそ、互いに折り合いをつけ、助け合い支え合う事を学べたことで、私自身成長することができました。

現在、我が家の二人の子供たちも社会人となり、私ももう直ぐ還暦。

残りの人生悔いなく生きたいと自給自足に本腰を入れながら、町の地域マネージャー(集落支援員)として活動させて頂いています。

この活動も「正解」と言うものも無く日々模索状態で、相変わらず地域の方々に支えられ、助けられっ放しの毎日。

この街に移って十数年、ようやく他人にも少しずつではありますが、ありのままの自分を出せる様になってきました。

好きなところも恥ずかしいところも、さらけ出してこそ築ける人間関係。

基本的には消極的な自分ですが、積極的に他人と関わって徐々に距離感が短くなって行く喜びは大きい。

この感覚の原点である緑のふるさと協力隊やあの時に受けた数え切れない程の恩、現在もなお受け続けている地域の恩に対して、恩送りとして返し続ける事が私の使命なのかもしれない。

迷った時は迷わず一歩踏み出そう。
未来がどう変わって行くのかを楽しんで。
少しずつ一歩ずつ、毎日1ミリでも前に進めば、その先に笑顔の自分が待っている。

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