山の鏡

山の鏡




小糠雨の恵みを受け入れる緑滴る大地に一つの鏡があり、
勢いを増す春風に私は身体を委ねながら、鏡に映る自分にそっと微笑む。



山の鏡




山奥は都会の喧騒から離れ、
謙遜することも、無理に笑わなくても、
ただ素直に心を開ける事に賛成しているかのような風を私の耳に届ける。


過去との暇乞いをしたい私はずっと殻の中から
出れずに、簡単に通れる抜け穴をひたすら通ってきた。

自力で這い上がる意欲など冒頭無く、
誰かの助けが無いとうまく立ち上がれない。

頼った挙句、答えを簡単に拾い、
答えを食らうと胃が消化してしまい、
その答えがなくなってしまう。

食って満足するのはいい事だが、
身になっていないと意味がない。


悠々自適に日々を送りたいが、それは中々難しい。


危ない山道をトントンとリズミカルに私は歩いた。
頭の中を整理しながら山の頂上へと向かっていた。
不思議な事に、考え事をしながら歩くと
崖に落ちる心配を忘れてしまうのだ。いつ何があるか分からない不安をしっかりと持ち物に入れておかないとダメだと自作の脳内のシオリにそう書いたのに、
いざという時忘れがちなのが私なのだ。

人気のない山を登りおえ、私はもう準備ができていた。

「ここで夕日を見よう」


山々がオレンジの光を受け止めたとき、
私もオレンジ色の心になろうと決めていた。
表現的にオレンジ色の心というのは、
温かくそして穏やかな心なのかなと私は思ったからだ。



私は前々から周囲から突発的だね。
とよく言われていた。
私自身いつも何かに追われていて、
何に追われているのかも分からず、
ただ「焦り」という単語に追われる日々に苛立ちと、
周囲の意見が受け入れられない時期があった。
皆だってきっと欠点はあるのに、
何故そこまでして執着を向けられるのか分からなかった。
もっとお互いを褒めあえる、そんな環境に育ちたかった。


何故山を登ろうと思ったのか理由は浅はかだとは思うが、
きっと山々は沈黙を貫き、私の気持ちを受け止めてくれると思ったからだ。
決して人間に頼らずとも、山に頼るのもまた手だと思った。

冷え冷えとした山の風は私の顔を冷やしては、
草木に付く小糠雨は私の涙とも思わせる程パラパラと
一面を輝かせた。


「過去にしてしまった過ちはどのようにしたら、消えてなくなりますか。
いっそ崖に落ちて頭を打って、記憶を飛ばしたいところですよ。」

山はやはり沈黙を貫いていた。

上空を見上げると、雲がかる太陽に私は少し肩を落とした。
それでも私はとにかくこの頂上で夕日を見たいのだ。



なんとなく麓の方に目をやると、チラチラと何かが覗いて消える
清雅な光が私を呼んでいるように光っていた。
あの光は一体なんだろう。

夕日を見るか、
麓までまた戻ってあの光の正体を突き止めるのか、
これはかなりの決断だが、
性格上居ても立っても居られないので私は結局麓まで戻ることにした。


山頂でじっとしているより、
好奇心が勝る。

オレンジ色の夕日をこの目で見たかったが、
とにかくあの美しく引き込まれる光を近くで見たいという欲望にはかなわなかった。


芽吹く季節なので一面ソメイヨシノの桃色が
温かさを表現してくれた。

山を下りるとまた違う景色が私を楽しませてくれる。
風の匂いは美感を私に持たせるのであった。

そういえば、先ほどまで
消極的な記憶が走馬灯のように駆け巡っていたのに、
道筋が決まると一瞬にして山々の世界に溶けるとは、
人間は意外にも都合よく作られている。
この山の花も木も土も全てが人間が生きていくための
絵を見るような、心の薬なのかもしれない。


ソメイヨシノが咲き誇る際に、
寒い冬の風は大切な一貫なのだ。
私も辛い時間を歩いてきたから
いつか私という花が咲くかもしれない。

ソメイヨシノから頂いた閃きを胸に、私は光を追う。




ようやく辿り着くとそこにはなんと、
私の背丈の二倍ほどの鏡が堂々と立っていた。


その鏡は山の草木を映し出し、木漏れ日を
映し出しては、風の揺れと共に光を誘うかのように、
木々が踊っている。

私は圧倒された。
光の正体はこの鏡の反射だったのだ。



私の足は山の風に乗り、
気づけば鏡の前に立つ私に挨拶をしていた。


「こんにちは…私…?」


鏡に映る私は下を向いていて、
あいさつの返事は無かった。

不気味さと美しさは表裏一体のように
私を驚かせた。



鏡の中の木々は深い緑を貫くのに、
なぜ鏡の私は下を向いているのだろう。


好奇心は恐怖へと変わり、
葬り去る私の姿に共感した。



鏡の向こうの私になんとか振り向いてもらいたい。


地面に落ちたソメイヨシノの花びらを見て
私は手を下にやった。
花びらを拾い上げ、
唇に当てて花笛を吹いてみた。


花笛の音色は鳥たちを警戒させてしまったが、
私は鏡の向こうの自分に誇示しては
俯いたままだった。

それでも鏡の私の気持ちはわかる気がした。
どんなに相手が鼓舞してきても、
自分を庇護してしまう性格は私そのもの。



不安の解放は自分の中にあるのだと心理学者は言うが、
私は鏡の私に共感の一票を入れたくなる。



私は鏡の前で体育座りをしてみた。

恐怖に抵抗しながら私の姿を、
一点だけを見つめた。

鏡の私に夕日の話をした。
「今日はね、なんとなくだけども、夕日を浴びようと思ってね、夕日を浴びたら私も夕日のように誰かを温かく包めるような気がして。
そんな存在になりたくて。
だから一緒に夕日を浴びてみないかな?…………
みないか…。」


私の知を絞っても捻っても、いざ出てくる言葉は
幼稚な言葉しか出ない。




正直少し前の私は人間には感情がなければいいと思っていた。
問題も起こさないような、良い人になれると思っていた。
敵を敵と思わなくとも、私だけの課題に没頭できる。


「鏡の私は正しい表情をしているのかもね………。」


無理に私を変えることが果たして私にとって、
良い行いなのか自問し続けた日々に
終わりの合図を鏡に送ろうとなんとなく思った。


空の夕日はオレンジ色を描き始め、
鏡の空も穏やかな色に染まっている。


鏡の私は相変わらずの表情だが
反射した穏やかな色はこの山の温かさの温度に合わせてオレンジを満たしていく。


鏡の私はどんどん姿を薄くして消えていった。



私はその鏡にお辞儀をした。
山の鏡が私の生き道だと信じて。


私はトントンと山路を下るのであった。










― 山の鏡 ―



















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