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日々、是、指導を受けての俳句

季語と五七五でいいんだよ。
いやいやそれは悪魔のささやきだ←

noteに来てから暫くして俳句に触れるようになった。
自分で詠むようになる前から短歌、そして長歌にも手をだして日本のいわゆる詩歌に触れるようになった。
拙くも自由詩を書いてきた者として、今時点で感じることについて書いてみたい。

昨年矢口氏が主催する「いちごつみ一行詩」に参加した折、問題になったのは「一行詩と自由律俳句の違い」だ。

わたしも参加者も好き勝手に考えていたが、イマイチピンとこなかった。
当たり前だ。一行詩と自由律俳句の違いで考えたからわからないのだ。
そうではなくて、自由詩と日本の伝統的な韻律詩(詩歌)で考えなければわかるわけがないのだ。律の話では無いというわけだ。

ある時俳句の師と仰ぐ草笛さんと歌仙をやっている時に、思い知った。
歌仙やいちごつみをやっていると、その場で間髪いれずに『指導』が入る。シショウハニコニコシナガラダメダシ(-_-メ)

その空気を感じると、なんか言われるまえに「ちょっと待って!」を自ら言うのがわたしの常。
(ガクシュウシナイノモワタシノツネ)

そんな指導のひとつ。
わたしはどうしても自由詩のクセが出る。却下になった句と、採用された句がこちら。
(ちなみにここは無季の指定場所なので、季語は入っていない)

カクテルは狙いすまして燃えたつ火→✖
傾けたカクテルグラス甘い罠→〇

ありがたくも✖を頂戴したほうは、なるほど観念的で多くを委ねがちになる自由詩だ。
俳句は景をはっきりと詠んで余情を委ねる。
わたしが感じたのはそこだ(マチガッテルカモシレナイケドネ)

詩歌というくくりの中でも短歌、長歌共に景こそを際立たせて描いているように感じる。その奥にあるものは感じ取れと。

大好きな短歌がある。

うつるとは月は思わずうつすとは水も思わず広沢の池(猿沢の池)

無心の境地にあってこそ美しい調和が存在するという内容だが、言葉にしているのは景のみだ。

これは余談だが、宇野重吉と笠智衆の「ながらえば」
無言で対峙するふたりが、ただアップで映し出される、圧巻のクライマックスシーン。日本人の得意とするところではないだろうか。

短歌、長歌は長さがある。それに比べて俳句は五七五と、たった17音だ。
だからこそ主たる景を際立たせるために、季語が重要になってくるのではないだろうか?句を生かすよすがとも言えるのかも知れない。
誰かの受け売りのようだが、心しておこう。

なかなか難しいし、おぼろげながらわかるようになったことだが、それとできるのか?は全く別の話だ←
歌仙をやっていると季語にどんだけ泣かされるかわからないし。。。

ここで草笛さんの一句
ここからはおとなのはなしかき氷

草笛さんは以前
「季語は宇宙」とおっしゃった。間違いなくおっしゃってるぞ。

深い…… 深すぎて(-。-)y-゜゜゜のレベルにいるのがわたしだが、これからも試行錯誤しながら挑戦していきたい。

最後にこれまた大好きな一句を置いて終わりにしたい。


夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉


現代語俳句の会にて投句会がおこなわれています。今回はフリー投句会で、テーマは「わたしの初夏」

https://note.com/kusabue/n/n98ae7aae27bf

#現代語俳句の会 #note俳句部




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