クセェ文章、スケベ心?そりゃアカンわ。そりゃあね。5

各個撃破の続きの続きのさらに続きです。
今回でやっとエンドマークです。
最初から読む場合はこちらから↓

えー、前回も言いましたが何度もツッコミ入れるのホント申し訳ないとは思うんだけど…どう見ても120%ツッコミどころしかなくて、続いてしまってるわけです。


うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい。

【うまい文章を書きたい。人を感動させたい。】は前回やりました。
残るは【共感してもらいたい】。

これって普通に友達との間で共感程度ならよくあることのような気がする。
わざわざ小説で求めるレベルなのかな、その共感は。
それとも『もっと自分を理解してほしい』ってことかな。
でも『自分を理解してほしい』、と「ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!」or「人を感動させたい」は併立しない概念だと思う。
なんかこれらはコンフリクトしてる。

「ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!」
って自己陶酔オナニーショー繰り広げながら
「共感してほしい」
って成り立つものかな。
んで、読者がそれを欲してると思う?
ほらコンフリクトしてない?

コンフリクトしてるってことは要するに一体どれが真にやりたいことなのか、が本人の中でも未整理なんだと思う。

結局、なんで文章書きたいのかな?
それがわかんないよね。
やっぱり、自分が昔他の作家さんにインパクト与えられて引き込まれて感動させられたリベンジか何か?
「私にだってそのくらい書けるわよ!」
ってことかな。
対抗意識?
自己顕示欲?
もしもそういう部分があるなら、それって伝えたいメッセージやイメージって言えるのかな。
そう考えると肩書きとしてやっぱ自分を飾るための「ファッション作家」志望なのかなーと勘繰ってしまう。

…なんて書いたら「じゃあエラソーなあんたはどうなんだ!」と怒られそうなので、一応私のスタンスを書いときます。以下。↓

リアルに生きてる人が共感できるような感情表現がしたいなという話。

自分の心を動かさないと読者の心も動かない話

つまり、「共感できるような質」のものは描きたいけど他人様に「共感して!」と強制する気はない。
「共感してくれる人が現れたら嬉しいな」くらいの話。
あと私が絵を描く理由はこれ。↓

なぜなら私がそういう共感を覚えるホンモノの感情が表現されている数々の作品に過去救われてきたからである。
現実に負け組貧乏人として生きてると様々な感情に囚われて腐ってしまいたくなることは多々ある。
そもそも幼少時から間違いなく捻くれて育ってきている。
その幼少期の一縷の救いになっていたのは、様々な作品だった。
その中にどうしようもなく共感できる作品があると、「この作者なら私の気持ちをわかってくれる」という生きる望みを繋ぐことができた。
例えばとある小説を読んで「少女が恨みを持ってもいいのか!!」と殴られたようなショックを覚えたことがあった。

共感というのは、地獄のような日常の中にあっては、一本の蜘蛛の糸なのだ。
例えそれが架空の作品上のものであっても。

だから、描くならそういったものが描けたらいいな、というのが、まあ私如きでは烏滸がましいけれども理想なのである。

自分の心を動かさないと読者の心も動かない話

これも、「こんな質のものが描けたらいいな」という話で、他人にそう感じろと強制する気はない。
「こんな質のものが描けた結果、共感してもらえることが奇跡的に起きれば、もっけの幸いだなぁ」くらいの話である。

そもそも、昔私を救ってくれた作品の作者の方々は決して「うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい」と思って作品を作ったわけじゃないと思う。
それぞれの作者の中で解決のつかないどうしようもない気持ちや感情を、なんとか昇華しようと足掻きながら創作した作品たちなのだと思う。
『これを吐き出さないと自分は生きていけない』という作者の魂の叫びみたいなものだったと私は思う。

同様の例としてヘンリー・ダーガーを挙げたことがある。

彼ほど「他人を全く視野に入れず純粋に作るために作った」人間はいないと思う。
ヘンリー・ダーガーは自分にうっとりするためではなく、あくまで「自分が生き延びるための一縷の蜘蛛の糸を自ら編んでいた」と私は思うのだ。

「心を動かす」のは自己陶酔ではない

私の場合は、私を救ってくれた作品の作り手が「自分自身が生き延びるための一縷の蜘蛛の糸を自ら編んだ」糸に掴まることで、幼少期を生き延びたのだ。
その作者たちの作品は自己愛でも自己陶酔でも自己顕示欲でもなく作者自身の「脳内イメージ」に忠実に書かれていたので、私はその恩恵を受けて育った。
だから「脳内イメージ」を追求して書かれてものとそれ以外の区別を、そうと知らずにずっと続けていた。

じゃあ「脳内イメージ」って何かというと現時点では以下。

「何を好んで何を摂取して何を選択して何を感じて溜め込んで来たか、という個人の感情の来歴」が「脳内イメージ」の正体

真のオリジナリティは青い鳥〜創作の真実の原石が転がる海岸のようなnote

結局これもね、逆順なんですよ。
「共感してほしい」という欲求が先にあるのではなく、「作者がやむにやまれず吐き出した作品に、それを必要としていた私が共感した」のである。
彼らの作品を必要とした私の方が「作品に吸い寄せられて共感を覚えた」のである。
決して「作者が共感してほしい!と思って書いたものにその通り共感してあげたわけではない」。
「共感してほしい」が先に来たら、その欲求にエネルギー割かれて作品自体のエネルギーはその分減ってしまう。

私が過去救われた作家たちはおそらくそうではない。
他人には理解され得ない自分の気持ちや、同じく苦しむ他者の感情に自分の方が共感して、様々な感情を徐々に溜め込んでいく。
溜め込んだ感情はなかなか他人に理解されず、作品に昇華することでその感情を解放しようと試みたのではないか。

つまり、作者が自分自身の内面に隠された正体のわからない感情を解き解すために書かれたものではないのか。

言い換えると、「他人に理解を求めるためではなく、自分自身の受容のための創作ではないか」ということだ。

そうして作者が内面に掘り当てた鉱脈は、到達した普遍性により集合無意識に繋がっていたのではないか。
だから、遠く離れた、年も離れた、一見何の共通点もない幼い私の心にその作品たちは響いたのではないか。
(集合無意識などのユング的心理モデルと創作については第三回でも触れた)

つまり、他人に働きかけて他人を変えてやりたいがために創作したのではなく、あくまで自分自身と向き合った結果なのではないかと思う。

だから逆順だと思うわけです。
上手いと思われたい、感動させたい、共感させたい、他人に影響を与えてやりたい、他人の心を動かしてやりたい、ではなく。
作者が自分自身と向き合った結果、心の普遍性に辿り着き、結果論で私のような迷える羊に垂らされた蜘蛛の糸になったのだ。
おそらく。

自分で自分を理解しようと努力するより先に、他人に「私を理解して!」って言うのはやはり順番が違うのではなかろうか。

そうやって物事の道理を逆に捉える人って、過去の自分が他人に影響を受けたことがもしかして許せないのかな。
だからリベンジで他人に影響力を及ぼしたいのかな。
そんなふうにも見えてしまう。

そんなわけで、他人の心を自分の思う通りに操作しようなんて発想はまあ、烏滸がましい行為だと思うし、そもそも無粋だし、本来のルートとは逆順なのではなかろうか。
なので、他人を思い通りに動かそうというその恣意的な意図、それこそがクセェしスケベ心なのよ。
と思う私であった。

どっとはらい。(やっと終わった…。)

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