クセェ文章、スケベ心?そりゃアカンわ。そりゃあね。3

各個撃破の続きです。
最初から読む場合はこちらから↓


引き続きスケベ心擁護の作家志望の方の引用から。


そうじゃなくて、エッセイや小説の場合、言葉と言葉が合わさって文章となり、そこから情緒がうまれるのが、創作ですよね。情緒がある、詩心がある。なぜだか心が揺さぶられる。ときに泣いてしまう。主人公と一緒になって怒ってしまう。ドキドキしてしまう。そんな風に情緒があるものが、創作の文章だと多む 思うんです。

これね、逆順なんですよ。
物事の道理を逆に捉えてる。
「言葉と言葉が合わさって文章となり、そこから情緒がうまれるのが、創作」
じゃなくて
「情緒(やこれまで溜めてきて吐き出せてない経験や情動)を伴ったイメージがあって、それはイメージである以上、そのままでは脳内にあるだけで人には伝わらない。人に伝えるためになんらかの表現手段を選ぶ、その一つに文章がある。その脳内イメージを人にも伝わるように(文章を媒体として選んだなら)言語化していく過程が創作」
だと私は思う。

別なたとえをすると、言語は舟。
イメージは舟に載せる積荷。
この(イメージという)積荷を人に渡したい(伝えたい)時に使う手段が(言葉という)舟。
先に立つのは人に渡したい(伝えたい)積荷(イメージ)。
舟(言葉)は積荷(イメージ)を渡すためのあくまで手段。
積荷のない舟を走らせたって積荷がない以上他人に何も渡すことはできない。
舟が何艘あっても積荷がなければ無意味。
言語という舟にイメージを載せることで他人にも受け取れるようになるし、受け手によって積荷(イメージ)をどう受け取りどう処理するかは人それぞれ自由。

言葉という舟だけでよく、意味がわかればいいのが説明文。
言葉という舟にイメージの積荷を載せて他人に届けるのが創作。
これが説明文と創作文の違い。
と私は思う。

積荷がちゃんと乗ってないのにデコトラならぬデコ舟にして「舟のデコり具合を褒めて!」と言っても他人に必要なのは積荷の中身なので、無意味。
舟をデコることが自己愛、自己陶酔。
舟は素朴でも積荷が載ってれば人にも手渡せる。

こんな感じだと思う。

そこで、上記記事にもどりますが、じゃあ、どこからがクセえんですかね。
どこからがスケベ心なの?

うーんと、↑の引用文ではクセェ文やスケベ心の「閾値」を問うてますが、そこから既に認識違いなんですよねえ…。
「どこからが」クセェでスケベなのか、「ではない」んです。
ボリュームのスライドバーじゃないんですよ…。
グラデーションでもない。

読者にとってクソの役にも立たない「自己愛」「自己陶酔」を混ぜない、というただそれだけの話なのよ。

この辺りの話は過去noteにぜーんぶ書いてあります。
なんで「自己陶酔=自己表現という勘違い」が罷り通るのかの機序も書いてあります。↓に。

あと自己陶酔≠自己表現についても↓のように書いた。

そういう自己陶酔への没入を感じる作品で、作品としてのエネルギーを感じるものにお目にかかったことは一度たりとてない。
自己愛(自己陶酔)と作品としてのエネルギーはゼロサムの関係なのである。
ただ、「描き手の自己陶酔への没入感」と、「作品としてのエネルギー」の見分けがつかない人もかなり多いのだと思われる。
何せ、細かい見分けのできるさらに高度な観察眼が必要になるからね。
物理的に描かれた以上の情報という点においては観察眼がない人には自己愛も作品としてのエネルギーも同じに見えるかもしれない。
しかし情報の「質の見分け」ができていないという意味ではその人のその時点の能力の限界を現しているとも言える。

「心を動かす」のは自己陶酔ではない

なのでそもそも見分け方から間違ってるというね。
そういう話。

だって、書きながら、ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!とか、考えながら書きますよね。

これ、第一回でも指摘したけど究極の作者のオナニーなので、こういう「作者側の恣意的な意図」は読者としては金をもらっても見たい代物ではない。
けど、こういうのが読者にバレるはずない、とタカを括ってる作者の文章には作者の意図がこびりついたまま伝わってしまう。
タカを括ってない作者は意図しないので当然バレるネタ自体がそもそもなく、タカを括ってる作者の意図は読者にバレる。
皮肉ですが当然の帰結です。

まあ、深く読み込んでくれるディープな読書好き層でなく、浅く読み捨てる大多数のライト層にさえウケればそれでいいや、という書き手ならそれでもいいかもしれません。
一見さんだけ狙ってリピ客の付かない、美味しくはないけど映える観光客向けのお高いお食事の店みたいなものかな。
そうなると心からのファンは付かないですけどね。


なので、少なくとも私は書き手としてもやらないなあ。
私は絵描きだから小説じゃないけど、絵でも同じ。
絵を描きながら、「ここでインパクト!ここで引き込むぞ!」なんて余計なことは考えない。
そういうのは単なる雑念でしかないので。

作者の「想定」した「インパクト!」は読者にとっても「想定内」に収まるので、実は作者の考えるほどに大したインパクトじゃないんですよ。
でも空気読んで褒めそやしてくれる心優しい読者もそれなりにいるから、作者は「しめしめ想定通りインパクト与えたわ!」ってドヤれたりもするけど。
でも、そんな想定済インパクトは、「雑念なく脳内イメージに極限まで迫った結果核心を突いた作品」のインパクトに比べたら、ささやかなものなのよ。

これはまあユング辺りの心理モデルでも説明できる。
作者の「想定」は個人の「顕在意識」なので、まあ想定通りにしか働かない。
顕在意識の及ぶ範囲はタカが知れてる。
作者が私欲を離れて創作に集中した時、「顕在意識」ではなく「潜在意識」にアクセスすることになるので、想定外のインパクトを生み出せる可能性がある。
つまり火事場の馬鹿力って奴です。
さらにより深くアクセスできると集合無意識の領域まで迫れる可能性すらある。
集合無意識だと個を超えるどころか万人に訴えかけるだけのポテンシャルがあることになる。
まああくまでユングの説になぞらえればだけど。

要するに「ここでインパクト!ここで引き込むぞ!」とか考える余裕があるだけ創作そのものに集中してない、という意味になるのよ。
ホントに集中してたら自我すらなくなるのよ。
脳内イメージとそれを見つめる自分の目、それら以外の存在は世界から全て消え失せてしまうくらいの状態が集中なのよ。

話を戻してそもそも論で言えば、書き手本人の思い入れなんて読者とは無関係なのよね。
作者が想定した場所にインパクトを覚えてあげる必然性は読者側にはないのよ。
いくらインパクト与えてやろうとか引き込んでやろう、と作者が意気込んだとしても、それは読者に課せられた義務じゃない。
これ、前にも指摘したけど「読者をコントロールしたいという傲慢さ」に繋がり得るので、私はこの考え方はお勧めしない。
少なくとも私なら読者としてはノーサンキューですね。

むしろそんな雑念に囚われなければごくごく素朴に書いても人にインパクト与えることがあります。
経験上。
例えば

↑を書いたら、とある絵師さんに激烈反応されちゃったのよ。
単に自分の絵に対するスタンスを念仏みたくブツブツ呟いただけの文章なのにね。

その辺の経緯を書いたのはこちら。↓

まあそんなわけで、別にインパクト与えようとか引き込むぞなんてひとつも考えず棒読みお経みたいな独り言をブツブツと呟いただけで激烈反応されることもあり得る。
なのでインパクトや引きを計算して配置する気にはならないなー。私はね。
まあ私は他人のあざとさにゲンナリするタイプなので自分もあざといことはしたくないってだけだけど。
そんなことするよりただ自分にとっての真実に忠実に書きたいよね。

やっぱりそれぞれの読者にはそれぞれの経験や感情の積み重ねがあるんだから、どこに反応するかを作者が決めつけるのはいかがなものかと思う。
そもそも計算高く他人をコントロールしたいって欲求自体が品がなくてあんまり誉められたもんじゃないと感じるのよ。
計算高く設定したお涙演出装置による感動作が苦手な話も既に書いてあるのよね。↓

口うるさい文章グルメですまんこってす。
でも逆に私を唸らせるようなもん書いてもらえたら心おきなく応援するタイプです。
ぜひ私を唸らせてほしい。

今回で終わらせようと思ったのにまた長くなっちゃったからまだ続く。

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