クセェ文章、スケベ心?そりゃアカンわ。そりゃあね。2

この文章は敬称略です。

前回もいいだけ書いたのにまだ書くのである。
前回はザックリだったので今回は各個撃破ね。

※前回のあらすじ
書き手としての「スケベ心」は当たり前じゃないの?という作家志望の方のnoteの意見にザックリNOと書きました

今回はもちょっと書き下し。

うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい。それは創作をしている以上、当たり前の感情な気もします。
だって、創作の文章rtr ってそういうものじゃないですか?

えーとですね、正確に書けば↑のような妄想に浸る「瞬間」がない書き手はいないかもしれません。
けど、それを正当化する人に真の書き手はいないと思う。
正当化するのは偽の書き手です。
厳しいこと言いますが事実です。

…と言ったら何が真で何が偽なのか?
と聞かれそうな気がする。
まあ答えはシンプルです。
「何のために書くのか」という目的の違いですね。
以前こんなことをnoteに書いた。

 「私が作った作品」

「この作品を作ったのは私よ!」
では意味合いが異なると思うのだ。
それぞれの主体は最後の名詞にかかっていると思う。
前者は「作品そのもの」。
後者は「作品を作った『私』」だ。

クリエイターという称号への陶酔は横に置く〜創作を巡る刺さるnote

「作品を作った『私』」というアピールこそが自己愛、自己陶酔の賜物ですね。
そんなこと考えてる時点で作品を作ることに集中してないのよ。
だからゾーンにも入れない。
作品を書くことが「『私』を飾るアクセサリー」扱いになっている。
あくまで主体は「私」。
作品のために奉仕するつもりもない。
創作の神様に魂捧げるわけじゃない。
「私」の見栄のために「作家という肩書き」が欲しいだけに見える。

うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい。

ここがまさに作品を作ることをアクセサリー扱いしてるとこなのよ。
「他人にどう見られたいか、『私』を他人にどう思って欲しいか」
っていうキョロ充の発想なのよ。
キョロ充はクリエイターじゃない。
周りの目を気にしてクリエイターっぽい仕草をして見せるキョロ充が、果たして真のクリエイターと言えるのだろうか?

キョロ充はクリエイターじゃないというnoteはこちら↓

ちなみに私の文章書くスタンスはこうである。

自分の吐き出したいモヤモヤを精確に書き表したい。人がどう思うかより、脳内イメージへの精確さが大事。大袈裟に書いてもいけない。過不足なく、精確であることが何より大事。

私はこのスタンスでずっと書き続けた挙句、自分の鬱を寛解させた経験がある。
まあ、私が書いてるのは小説じゃないから作家とはスタンス相容れるはずない、と言われそうだけど。
でもこのスタンスで小説書きの相方の文章力アップさせたのも私である。
文章に乗った相方の脳内イメージと文章間の齟齬を指摘し続けてたら、脳内イメージにぴったり沿った小説を書けるようになったんですよ。
多分ごくごく最初は書く時の自意識の固着も指摘してたと思う。
最初はそんなもんですよ。最初からゾーンに入れる人なんていないから。

逆に言うとたとえ「人にこう思われたいなあ」という「瞬間」があろうと実際に作品に向かい合った時に書きたい「脳内イメージ」に忠実に書ければ無問題なんですよ。
作品に向かい合う時に自己愛自己陶酔を混ぜるのがダメって話で。

そうじゃない文章は、例えば、電化製品の取り扱い説明書みたいな、胆摘で(摘出手術じゃない笑)端的でわかりやすくて、無駄がない。それは、説明文です。

真に書ける人は簡素な文にも豊穣なイメージを乗せてますよ。
端的でわかりやすくて、無駄がない。なのに、行間に豊穣なイメージが溢れてる文章が達人の文章です。
前も書いたけど、これでは引用元のnoteに書かれてたイカナゴくぎ煮の文章を「説明文」呼ばわりしてるのと同じです。
端的でわかりやすくて、無駄がない。なのに、行間に豊穣なイメージが溢れてる文章を読んだことがないとしたら、ちょっと可哀想な気もする。
「豊穣なイメージが行間から立ち上がっていたからこそ、十何年も前の文章から受けたイメージを、引用元のnoteの主が今でも思い出せる」という事実を、どう考えているんだろう。
不思議だ。

文章作法についてなら花村萬月が実はかなり必要なことをあちらこちらで書き散らしてるので、萬月のエッセイ読むのも手だったりする。
なんか本人嫌がってるフリしながらいつもいついつまでも文章作法に言及してる。
そして萬月も小説文はクソ簡素。
エッセイの地獄のような超絶クソ長センテンスのくだくだしさが嘘のように簡潔。

あと今はどうか知らないけど昔の吉本ばななとかクソシンプルな文で叙情的な作品書いてましたよね。
私は「マリカの永い夜」(改題前。改題後は「マリカのソファー」)が好きだった。
あと池澤夏樹とか。
「スティル・ライフ」は短いのですぐ読めると思うけど、乾いた文体でイメージ豊穣。
雪のシーンとか最高に美しい。
一見技巧的になんの捻りもない簡素な文章なのに、自分が上昇していくのを「体感」したものです。

あと今はすっかり忘れ去られてる幻の作家だけど堤玲子も「べらぼうに文章が上手い」(という評をどこかで聞いたがその通りすぎる)
堤玲子は自分が生まれた時には既に活動してなかったので、田辺聖子か誰かのエッセイで知って、近くの図書館でどこかよその地域からボロッボロの本取り寄せてもらって読んだと思う。
衝撃的、圧倒的、鮮烈なイメージを核物質のように圧縮するからめちゃくちゃすごいインパクトある文章だった。
とにかく圧縮が上手い。
何重もの意味とイメージをたった一言に圧縮するのが「べらぼうに上手い」。
しかし堤玲子も奇を衒った文章ではない。
でも短いフレーズに濃厚にイメージ乗せるの上手いんだよねえ…。

てな感じなのでイカナゴくぎ煮の文章を「説明文」扱いするってことは吉本ばななや池澤夏樹や堤玲子も「説明文」つってるのと多分同じことよ。おそらくね。
シンプルな文を否定するってことは衒学的なハッタリ文章を書きたいってことになる。
けどそれこそが創作を自分を飾るアクセサリー扱いする「スケベ心」なんですよ。

なんか想定よりクッソ長くなっちゃったからまだ続く。


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