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「感情センサー」と「分析筋肉」はある(2)

前回感情センサーについて書いたので今回は分析筋肉である。

絵描きに限らずクリエイターには分析筋肉は必須だと思う。
なぜなら分析しないことには新しい技能が自分の身につかないからである。

前回の感情センサーで感知しただけではそこで終わりである。
感知したものを分析、整理しなくてはならない。
できれば法則を見つけ出すことが望ましい。
法則らしきものを見つけたら、それを機会ごとに繰り返し確認する。
その時々の偶然ではなく、何度繰り返し見ても再現性があれば仮の法則として自分の内部にセットする。
次回自分が描くときにその仮の法則を使用して自分の手でも再現できるか確認する。
これも繰り返して再現性があれば法則として確定する。

こうすることで多種多様の材料から特定の法則を見つけ出して、法則のみを自分の中にしまっておけばコンパクトに収まる。
すると次回も最小限の法則から展開、応用できるのである。
過去noteにも似たことを書いた。

というわけでセンサーで感知したものを分類、整理、体系化、法則性の可視化のために分析が必要になるという話である。

私がnoteで書いてきた内容も概ね「自分のセンサーで感知したものを分析した結果を分類、整理、体系化、法則性を可視化したもの」と言える。

思えば昔から分析ばかりしていた。
その最初のきっかけはこんな感じだった↓

私は首を傾げる。
なぜ、この1cm四方にも満たないドットで半ば潰れたこのカットに異様に吸い寄せられるのか。
そこに存在しているキャラクターの表情、感情がなぜこんな目を凝らしてもドットの集まりにしか見えないぼんやりした画像からヒシヒシと伝わってくるのか。
なぜこんな小さなカットでどんなポージングかをある程度理解でき、さらに緊迫感と力強さを感じるのか。
なぜ他のカットと違う強烈な吸引力なのか。
どうするとそんな絵になるのか。
どんな要素を満たせばそんな絵が描けるのか。

貧乏育ちだから獲得できたお絵描きに必要な能力

↑を分析しようとかなり長いこと必死になった。
だから私の本気の絵描き修行はここから始まってたと思う。
絵だけでなく私の所見自体が分析から生まれている。
↓この辺も分析の結果を形にしたものだし。

↓これは雑魚モブ絵師を分析した結果書いたものである。

そもそもお絵描きはじめ創作自体が分析必須である。
対象物を観察、分析してデッサン。
リアル人間を観察して分析の結果アクやエグみ排除の換骨奪胎をして漫画絵に変換。
神絵師と自分の絵のどこが違うのかを一生懸命分析して素晴らしい点を一般化、法則化してから自分の絵にも適用させてもらう。
素晴らしい作品のどこが素晴らしいのかを、ファン目線ではなく描き手視点で分析し、具象化、体系化する。
インパクトある表情を描く人がいたら表情・感情の種類をミクロ、ナノレベルまで分析し、特定の表情の具体化に寄与するパーツとの連携をまた分析する。
自分の描きたい脳内イメージとそれに追いついてない自分の絵の、どこがどのように追いついていないのかを分析し、脳内イメージに近づける。

漫画や小説などであれば人物の心理描写が必要になる。
ここでありがちテンプレレベルの浅い描写では一見さんしか読まないことになる。
人間観察による深い洞察、人間心理の機微への理解、ある種の哲学。
そして自分の内面も分析してすり合わせ。
そういったものの会得には分析が欠かせない。

特に自分自身の内面の直視が一番大事である。
例えば感情と建前が乖離した絵は一般的に「生理的にキモい」絵になるからだ。
(ギャグならありだが)
絵に限らんけど作り笑いで表情の目の奥が笑ってない人見ると恐ろしく感じるよね?
これが顔のテンプレ表情と目の奥の真の表情の乖離である。
内面うちづら外面そとづらの乖離ははたから見てキモいだけでなく本人のメンタル的にも非常によろしくない。

これは絵に限った話ではない。
音楽でも良さげな上っ面に小手先の感動狙いのメロディーラインにありきたりなコード進行、で作り手の感情が伴ってなくて空々しく響くなんてものもある(よくヒーリングと銘打ったものにこういうのが散見される)
文章であっても表面飾ってても作者の感じ悪さがダダ漏れの小説なんてものも読んだことがある。

そういったダメなもののダメな理由、良いものを良いと判断できる理由の分析は重要である。
それらを「そう感じた、そう思った」で終わってはもったいないと思うのだ。

ちなみに分析作業で大変助かるのが相方の存在である。
相方とのやりとりを通して自分が引っ掛かる箇所を投げかけて見解を聞きながらほどいていく。
返ってきた返答を材料に組み入れてまた分析を更に進める。
そのキャッチボールの繰り返しで分析をどんどん掘り下げていけるので、同レベルの解像度で会話が成り立つ相方がいるというのは心強いことである。

というより相方に限らず他者の視点の提示はものすごく助かる。
なので私は何かのテーマに興味を持ったら、賛否がある場合必ずその両方の意見を見てみることにしている。
自分の意見がどちらか寄りであったとしても、反対意見の視点も大事だし、そこに新しい視点があると感じるからだ。
(ただし、賛否に関わらずあんまり低レベルなのは勘弁)

そして、出来るだけ広い視野でものを観察する方が法則を見つけやすいからである。
法則を見つけるのはもう趣味と言っていい。
物事の把握がしやすくなるからだ。

私は物覚えが悪いのでバラバラのものを覚えておくことができない。
なので法則を見つけて分類、整理、体系化しないと理解できないのである。
だから「理屈なんかどうでもいいからとにかくやれ!」と言われるのが苦手である。
なぜこれをせねばならないのか、理由が理解できないと行うことができない。

例えば絵を描くときに「なぜそのような手法が必要なのか」が理解できないとその手法が使えないのだ。
だからその意味でも絵を描く以外の「作業」「工程」が覚えられない。
ダイレクトに描くこと以外の手法はよほどそれが必要な理由が生じない限り、私の頭では覚えられないのである。

だから私はひたすらモノを観察して分析して、
モノの存在感が何に由来するのかを考えてその法則を見つけて、
人の感情や動物の感情を観察してその法則を見つけて、
絵の上で表情を構成するパーツの形と実際の感情との関連性を分析しながら確認して、
自分の内面と絵の上の表情との関連性の法則も試行錯誤しながら分析の上見つけて、
人体の形と可動域と重心を観察と自分の体感とをすり合わせて分析することで人体の描き方とポージングを覚えて、
そうして今の絵の描き方になっている。

そんなわけで、私はおはなし筋肉はないが感情センサーと分析筋肉だけは無駄にあるのだった。
はい、過敏感情センサー持ちの分析マッチョです。
へばね。

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