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「『世界に一つだけの花』症候群」という仮説

この文章は敬称略です。

ふと表題通りに思いついた。

一般論としての話で、特定個人の話ではない。
そして「世界に一つだけの花」という歌は結構昔の歌なので、Z世代は知らないと思う。
でも、そのZ世代の親はドンピシャでこの歌の世代だろう。
この歌を歌ったアイドルグループのファンでなければ女にあらず、くらいの勢いのあったアイドルの歌である。
そのアイドルが「誰もがみんなそれぞれ一番なんだよ」というゆとり教育の理想そのものを具現化したような「万人に優しい」歌を歌ったわけである。

つまり、この歌のドンピシャ世代のさらに子供世代は、この歌を理想とした親に育てられたのでは?という仮説が成り立つ可能性を思いついたのだった。

その当時も現在も、子の教育のメイン指揮系統は母親が握っている家庭の方が多いと思う(単なる肌感であり、統計などには当たってない)

現在の母親世代を中心に老若を問わぬ婆から孫までの「ジェンダー種別:女」にとって、神にも等しいアイドルグループだったのだろう(自分はそうではなかったので推測)
女性として性を受けた以上このグループを支持しないなど天地が返ってもあり得ないという世間的風潮の中、「誰もに優しい、誰も否定できないほど清く正しく美しい理想の世界」の歌が大ヒットした。

ということは当時の「ジェンダー種別:女」の価値観にこう、潜在的に深くこの思想が刷り込まれた、という想定は、突飛でおかしなものであろうか?

で。

これがじゃあどのように今の世代で実を結んだかというと。
(ちなみにあくまでこれは仮説である。表題にも書いた通り)

この、

「誰もに優しい、誰も否定できないほど清く正しく美しい理想」

を夢見たくだんのアイドルグループのファン及びその子供は、

「他者の否定(悪意や作為とも限らない)に遭う&遭わせることなく育ち、そのためにある意味『幼児的万能感』を保持したまま過ごしてきた」
のでは?

という天啓が私の脳に閃いたのだった。
つい先日のことである。

ちなみに私はというと、理想は美しいね、と思う。
でも現実は違うよね、とも思う。
耳に心地いいメッセージがすべて真実とは限らないよね、って話。

昔、「少年は荒野をめざす」(故・吉野朔実 作)にうろ覚えだけどこんなシーンがあった。
頭脳明晰優等生の菅埜が、親友(本当はLOVE)の狩野の言葉の意味がわからない同じく親友の野球少年小林に「お前が特撮ヒーローの真似したとするだろ?そして横見たら鏡にその自分の姿が写ってるのを見てしまう。そーゆー意味」(意訳)と説明するシーンだ。
この作品は幼少期の経験からジェンダーアイデンティティの揺らぎがある狩野が主人公の、切れすぎるが故にいつのまにか痛みもなくできていた一筋の傷跡から血が流れていたような、そんな漫画だったと記憶してる。

いつの時代も、理想と現実はギャップがデカい。
清く正しく美しい理想はそりゃ美しいけれど、自分が特撮ヒーローだと思い込んだまま成長する子供は果たして幸せだろうか。
でも結局どこかの時点で「お前はヒーローじゃないよ、ワナビーの凡人だよ」という現実と相対あいたいすることになる人の方が、そうでない人より断然多いとは思う。
だってありふれてるから凡人、レアな人が特別なわけだから。
みんながみんな全部特別なわけないのである。

ただ、今は趣味の世界が細分化してそれぞれの分野でカジュアルに多岐にわたる「神⚪︎⚪︎」が生息している。
その神々にはそれぞれ信心深い信徒もついていたりするわけで、さすが八百万の神の国日本である。
とはいえやや少し前話題になったnote※が示すように、信心深い信徒も神が自分に奉仕して当然という信徒や、信心深すぎるが故に狭量になり容易く敵と看做した相手を攻撃し始める信徒もいる。
※やや少し前話題になったnote↓

※その後上記のnoteの主は反省のnoteも書いたようです

そうやってある意味自分が神と呼ばれる分野以外では凡人であることを知る機会はどんどん減っているのではないかと思う。

…などとつらつら考えてたら20年近くも前に全く同じことを書いてた先達がいた件。

つか、こちらの方が断然詳しい。
ちなみにこちらの方は私のいうところの「幼児的万能感」を「原始的ナルシシズム」と称してる。
フロイトのいわゆる「一次的ナルシシズム」の別称と思われる。

幼児的万能感を適切に脱しきれない場合については以下↓が参考になると思う。

万能的なコントロールの感覚を持ちたい欲求や、自分の束縛されない力の結果としてさまざまな経験を理解したい欲求が、抑えがたいほどの力を持っている人もいる。ある人のパーソナリテイが、自分の万能性を如何なく発揮する感覚を追求し楽しむことをめぐって組織化されていて、その他の実際的倫理的関心すべてが二の次に意味しかもたぬようであるなら、その人は精神病質と解釈されるべきである。(社会病質)と(反社会性)同義語)

(略)しかし、めったに法を犯すことのない多くの人でも、万能的コントロールの防衛によって駆り立てられるようなパーソナリテイを有している。 (後略)

3.万能的コントロール-原始的防衛

結論としては

  • 理想は美しく大事だけど、現実とのギャップは必ずある

  • 理想だけしか教えずひたすら特別扱いばかりしてると現実にぶつかった時に生き残る知恵が育たない

  • 現実にぶつかった時に理想のお題目唱えても無駄

  • 理想と現実の間を埋める現実解(実践的な知恵)が必要

  • 「特別ではない自分」を自覚する機会を通して現実の渡り方を学ぶ方が良いのでは

  • 「相手に不快感を与えないようにしようね(≒「だから他人も自分に不快感を一切与えるな」の婉曲表現)」は確かに必要なマナーだがお題目だけでは実用性がない

  • 悪意からの不快感と不可抗力のそれがあるので時と場合を見分けて不快感に対処する方法の会得も必要

  • 自分は特別ではないことと個性があることは併立するので「二元論で特別でない自分を卑下しない」

  • 自己卑下に気づかないと他者下げに無自覚に陥るので自己メンタルのありように要注意

こんな感じかな。
ほならね。

いつもの本文と関係ない絵。
音楽聴きながら思いついたものを描いてるだけ。
なお、その音楽に元某事務所は含まれない。
私の好みは極めてストライクゾーンが狭く、
j-popはほとんど入らないからだったりする。
ビジュ的にも元某事務所アイドル
というか芸能人そのものに全く興味が湧かない
世間から石投げられそうなタイプ。
かと言って一般的な洋楽ヒットチャートもゾーン外。
生身の人間にほぼ興味がないからと思われる。

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