クセェ文章、スケベ心?そりゃアカンわ。そりゃあね。4

各個撃破の続きの続きです。
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えー、前も取り上げたこれ。
何度もツッコミ入れるのホント申し訳ないとは思うんだけど…どう見ても120%ツッコミどころしかなくてですね………。



うまい文章を書きたい。人を感動させたい。共感してもらいたい。

あのー、【うまい文章を書きたい】んですか?
『作品』じゃなくて、「うまい文章」?
そっかあ…作品じゃないのかあ。書きたいのは。
『表現したいこと』、『経験した割り切れない感情や気持ち』、『心の中に温めてるシーン』とかじゃなくて、「うまい文章」。が書きたいんだ。
『拙くても、手が届かなかったとしても、なんとしてでも形にして伝えたいメッセージやイメージ』があるわけじゃないんだ。
じゃあ、一生懸命、拙くても自分の意思を伝えようとする子供の言葉とかは、拙いから無意味ってことなのかな。

うーん、私なら『脳内イメージに忠実に描きたい』ので『それに必要な技術は最低限ほしい』けど、『上手いと思われたいわけではない』なあ。
『イメージを損なわずに伝えたい』気持ちはあるけど、『そのために必要な技術は獲得したい』けど、『結果論として前より上手くなるかもだけど、それ自体が目的じゃない』んだよねえ。
『上手くなりたい』が先に来るとしたら、『創作に打ち込みたい気持ち』(があるなら)とコンフリクトするよね。

読者に上手いと言われてイメージ伝わらないより、多少技術が届かなくても読者にイメージが伝わった方が私はうれしい。

そもそも「上手い=伝わる『じゃない』」からなあ。
文でも絵でも上手くても伝わってこない人結構いるからなあ。
ましてや「これ、上手いだろ?(ドヤッ)」感出てたら共感性羞恥でソッコーサイナラしますわ。

あとは小説の場合だと何をもって上手いと定義しているのか、そこがわからないかな。
私の場合短い一言に多重にイメージが乗ってたら「う、うめぇ…ッ!!」てなるけど、全人類がそう思ってくれるわけじゃないもんね。
なのでこれは単に私の好みというだけである。

小説書くような人なら(真剣に文章に向き合ってない雑魚モブ同人作家は置いといて)日本語に齟齬がないのは火を見るより明らか。
なのであとは読み始めてすんなりイメージが入って来ればその先も読むし、イメージ伝わって来なければ序盤でサイナラだし。
なので一般レベル以上の作品読もうとする時に上手い下手を判定する場面って、まああくまで私の場合はあんまりないかな。
イメージ伝わってくるかどうかしか判断してないと思う。

もしも
小手先で衒学的なムツカシイ表現でこれ見よがしとか、
捻くれた言い回しの多用だったり、
体言止め多用とかばっかで脳内イメージそっちのけ、
とかなら厨二的ポエムやなってサイナラするし。
まあ衒学的ポエムにイメージ乗ってることはまずないね。
自己陶酔に全振りしちゃうとイメージもへったくれもなくなるのよね。
だから脳内イメージの表現(自己表現)と自己陶酔はゼロサムだーって何回も言ってるわけ。

そもそも市販されてるちゃんとした作家の小説って、「上手い下手で判断」する人、読者ではあんまりいないと思う。
「上手い下手」より「好き嫌い」じゃない?
つまりね、上手いとか下手とか気にするのって、読者視点じゃないと思うのよ。
そりゃ作者視点としては「上手くなりたい」はあるかもしんないけど、だとしても抽象的すぎない?
どんな作品書くのが理想?と聞かれて「上手い文章の作品」てまず答えないでしょ。
つまり「上手い文章」は作家個人の作品の目標イメージとしてはミスマッチングだと思うのよ。

んじゃ「上手い下手」が視野に入ってくるシチュってどんなの?と考えると…。
うーん、ありがちなのは他の作家さんとの張り合い、マウント合戦くらいかな…。
他人と比べる時くらいしか「上手い下手」なんて気にしなくない?気のせい?
つまりね、「上手い下手」って他人との比較で言ってない?
うーん。
仮にそうなると、誰かと競争してるのかなー。
何のために書いてるのかなー。
こんな作品が書きたい、じゃなくてあの作家さんに勝つために上手くなりたい!ってことなの?
って不思議になる。
「上手い」が視野に入り続けるって、そーゆーことじゃない?

それじゃあ書く動機としても曖昧というか、表向きにそう標榜もできないので、そりゃ作品としてはっきりくっきり書けるわけないよなあ…となる。

はっきり言いましょう。
読者に伝えたいことが「私の文章上手いでしょう?」「凝った表現でしょう?」「私すごいでしょう?」とかいう書き手はまあ有り体に言ってものすごくカッコ悪いです。
もっとはっきり言いますとダサいの一言です。
「え、わざわざ紙面割いて読者の時間空費して伝えたい内容が何、ただの自画自賛なの!?」ってなるよ私なら。
何かイマジネーションを駆使した別世界見せてくれるのかと思ったら見せられるのは作者の自己陶酔とかさあ。
読者的に受け付けるの無理に決まってんじゃん。

イマジネーション、書きたいイメージより「上手い文章と思われたい(他の作家さんに勝ちたい)」のが先に立つなら、そりゃゾーンに入れるわけないよね…。
(´・ω・`)ショボビエンヌ…。

で次、【人を感動させたい】。
なんで感動させたいの?
なんで「ここのインパクトいいぞ、とか、ここで読者を引きこむぞ!」とかのインパクトや引きや感動を見知らぬ他人に強制したいの?

あのー、もしかしてなんだけど、

自分が他の作家さんにインパクト与えられて引き込まれて感動させられたことへの仕返しか何かなの?

でもないと「『他人に感動を与えたい』が自分が書きたいという自己表現欲求より『先に』立つ」という発想が、出てきそうにない…ような気がする。

そもそも前回書いた通り、他人の心のどの部分が読者の琴線に触れるかなんて書き手の計算通りに行きっこないと思うのよ。
なのに他人に強制したいと思うのなら、まあ言うて無粋だと思うわ。

大体、自分が感動した作品の作者の人が「読者を感動させてやるぜぇーっ!」て気持ちで作品作ってたとしたら、そんなん想像したら激萎えない?

そもそも「感動を人に与える」って、自覚的にできるもんなの?


その考え方って、結構烏滸がましくない?

まー、はっきり言いまして、「作為で感動を演出」
されたら萎えるでしょ?
「100日後に死ぬワニ」騒動を考えれば火を見るより明らかでしょ?
作為が見えた時点で激萎えなんですわ。

だから作者が作為的に感動を「演出」するのは悪手なんですよ。
作為じゃない偶発的なたまたまの奇跡こそが感動を生むわけです。
それって別な言い方をすると神の領域なわけで。
つまり、

「作為で感動を演出してやる!」なんていうのは神を僭称するようなもん

です。

神の如きウエメセ視線で書かれた作品に、真に感動して、何年も何十年も「ずっっっっと心に刺さり続けていてくれる人」が、果たしてどれだけいるものなんでしょうかね。


私には極めて疑問であります。

またしてもエンドマーク付けれんかった…。
次こそ終わらせたい…ッ!!!

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