りせん

近代建築や絵葉書のことを調べています。 ◇大阪中之島にあった建物 ◇今はなきホテル達…

りせん

近代建築や絵葉書のことを調べています。 ◇大阪中之島にあった建物 ◇今はなきホテル達 ◇ホテルの備品や紙もの ◇旅先で見たもの 蒐集したものと聞いたことをこの場所に纏めて残していきたい。

マガジン

  • ヤン・レッツェルとホテル

  • 広小路の名古屋ホテル

    かつて、名古屋の広小路・竪三蔵町に存在したホテルのお話です。

  • 水都のクラシックホテル

    かつて、大阪の中之島、今橋に存在したホテルのお話です。

  • 中之島の古城病院

    絵葉書に描かれた建物からかつて中之島にあった病院の姿を追っていくお話です。

最近の記事

ラベルと辿る神戸の話-元町ホテル

早いもので今年も残すところあと1週間。古本市、初開催の建築イベント、今年は何かと神戸方面に足を運ぶ頻度が多い年でした。 古いものと新しいものが調和し、洗練された街並み、住む人はあたたかい港町。私が抱く神戸のイメージはそう言ったもので、出来るだけ背筋をピンと伸ばして優雅に歩きたくなる場所です。 (実際には北野坂や海岸通りの風に吹かれて縮こまっています。) 今回はかつて神戸にあったホテルの事と、それを調べていく過程で見聞きした事のお話です。 その前に神戸の開港について少しだけ触

    • ヤン・レッツェルとホテル③-宮島ホテル

      前回に続き宮島ホテルのお話です。 その②はこちら。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ・ホテル譲渡と戦後のこと 昭和15(1940)年、大日本麦酒株式会社は広島市内の新天地にアサヒビアホールと食堂を設置します。 当時の新天地は劇場やカフェーが立ち並び、広島で最も賑わった繁華街。宮島ホテルの損失をこの食堂の売上で補填出来るほどでした。 第二次世界大戦の影響で再び外国人旅行者は減少していき、太平洋戦争開戦以降は日本国中が労力と物資の節約

      • ヤン・レッツェルとホテル②-宮島ホテル

        前回に続き、かつて宮島にあったホテルとその資料に関するお話です。 その①はこちら。 既存建物の火災等で当時宮島ホテルの経営は不安定な状態でしたが、レツルが設計した新館やそれに続く和館の増設により、経営陣は今後観光客も大いに増加するだろうと期待していました。 ところが新館竣工と同じ頃、欧米では第一次世界大戦が激化。観光目的で訪れる外国人は目に見えて減少していきます。 7.絵葉書-大日本麦酒株式会社 大正12(1923)年の臨時株主集会では、経営不振の責任を取るため社長と重

        • ヤン・レッツェルとホテル①-宮島ホテル

          日本ホテル略史には戦前から戦後に至るまで幾つものホテルの沿革が記されています。その多くが火災や戦災によって閉館、あるいは経営縮小を余儀なくされ、失われていきました。 中之島の絵葉書をきっかけに調べてきた大阪ホテル、名古屋ホテル。 2022年春、京都の古書即売会で購入した絵葉書に描かれていた宮島ホテルもそのひとつです。 ホテル洋館部の設計者であるヤン・レッツェル(以下レツルと表記します)は広島県産業奨励館、のちに原爆ドームと呼ばれるようになる建築を手がけた事で知られています。

        ラベルと辿る神戸の話-元町ホテル

        マガジン

        • ヤン・レッツェルとホテル
          3本
        • 広小路の名古屋ホテル
          5本
        • 水都のクラシックホテル
          2本
        • 中之島の古城病院
          6本

        記事

          明治33年のガイドブック-名古屋ホテル

          ★前回までの名古屋ホテルまとめ これまで絵葉書や紙の資料について調べる際に、国立国会図書館のデジタルコレクションを利用する事が幾度もありました。 中には国立国会図書館へ直接行く、もしくは「図書館向けデジタル化資料送信サービス」を利用しないと、インターネット上では閲覧できない資料があります。 (明日、令和4年5月19日からは利用者登録すれば個人の端末でも閲覧出来るようになるそうです。印刷等のサービスは来年開始予定) 今回、その区分に含まれる名古屋ホテルの写真資料について、

          明治33年のガイドブック-名古屋ホテル

          戦後の記録について‐名古屋ホテル④

          前回の記事はこちら。 9.絵葉書-戦後? 名古屋ホテルの館内、4か所を写した絵葉書です。 入手当初は昭和10年のパンフレットや絵葉書と同じ頃のものかと思ったのですが、どことなく違和感を覚えました。会議室のような大宴会場、開口部や配置が違うロビー、モダンなベッドや照明。空襲の少し前に改修された可能性も考えたのですが、絵葉書を集めている友人に見せてもこれは戦前ではないのでは?と疑念を抱いたようでした。 この頃ちょうど名古屋へ行く用事があり、愛知・名古屋 戦争に関する資料館に

          戦後の記録について‐名古屋ホテル④

          和やかホテルの思い出‐名古屋ホテル③

          前回の続きに入る前に、広小路通りと名古屋ホテルの位置関係がよく分かる絵葉書を入手出来たので紹介します。 6.絵葉書-広小路通り納屋橋から東を見た広小路通りの眺めです。 右手奥に小さく見えているのが松坂屋。大正14(1925)年に各店舗の商号を「いとう呉服店」から「松坂屋」に変更・統一しているため、この絵葉書はそれより後のものと思われます。 中央、尖塔のある建物の奥に見える住友銀行名古屋支店の竣工もほぼ同じ頃でした。 左手前の地上3階地下1階の細長い建物は加藤商会ビル。貿易

          和やかホテルの思い出‐名古屋ホテル③

          「古くてもよしの味」-広小路の名古屋ホテル②

          前回に続き、かつて名古屋にあったホテルとその資料に関するお話です。 その①はこちら。 3.マッチラベル‐名古屋ホテルの食堂陣 大阪ホテルと密接な関係になった頃、名古屋ホテルは市内に幾つかの食堂を開いています。 大正9(1920)年3月、尾三銀行の地下室に「尾三食堂」を開店。これは名古屋市内における地下食堂の先駆けとなるものでした。 ランチから一品料理まで工夫を凝らした洋食店で、広小路のサラリーマン達を虜にしたようです。 昭和2(1928)年、尾三食堂が入っていた尾三銀行

          「古くてもよしの味」-広小路の名古屋ホテル②

          「古くてもよしの味」-広小路の名古屋ホテル①

          前回の記事で紹介した大阪ホテル。その前身である、自由亭ホテル中之島支店が設置されたのは明治14(1881)年の事でした。その数年後、いよいよ名古屋にも洋式ホテルが出現します。 のちに旅館志那忠本店となる旅館信濃屋を経営していた四代目信濃屋忠右衛門は、明治20(1887)年、富沢町にて「洋式ホテル志那忠(ホテル・ヅ・プログレス)」を開業しました。当時名古屋には西洋式のホテルが無く、人々の話題を呼びます。 このホテルは明治30(1897)年には中村区泥江町に移り、パラス・ホテル

          「古くてもよしの味」-広小路の名古屋ホテル①

          水都のクラシックホテル②今橋の大阪ホテル

          【大阪ホテル 今橋時代】1.絵葉書‐今橋支店から本店へ 大阪ホテル今橋時代本店 中之島本店の焼失により、以降は支店だった今橋ホテルが大阪ホテル本店となります。今橋の西詰めにあった元逓信省西部管理局の建物を改築したもので、清水組が施工を請負いました。 今橋時代の内装(ラウンジ・応接室・客室) 煌びやかな中之島本店と違い、「みなさまのホテル、気楽なホテル」として家庭的な雰囲気を織り込んだ今橋支店。外国人だけではなく日本国内の利用者に寄り添ったホテルになっていきます。 『

          水都のクラシックホテル②今橋の大阪ホテル

          水都のクラシックホテル①中之島の大阪ホテル

          明治35(1902)年、外国人観光客の誘致が盛んに行われる中で、国内ガイドの統率を主な目的として5大ホテル同盟が結成されました。 加盟したのは帝国ホテル、富士屋ホテル、金谷ホテル、都ホテル、そして大阪ホテルです。これらは形や名称を変えながら現在も歴史あるホテルとしてゲストを迎え続けています。ただ唯一、大阪ホテルのみ建物も会社も今はもう何処にも残っていません。 それでも大阪ホテルが確かに在った事は、大阪を訪れ、宿泊や食事を楽しみ、幾多の時間を過ごしたゲスト達が書籍や写真を残し

          水都のクラシックホテル①中之島の大阪ホテル

          病院の想い出を辿る/中之島の回生病院

          ★かつて中之島にあった回生病院の建物に関するこれまでの記事はこちら。 中之島の古城病院|りせん #note https://note.com/midorisen/m/m44bc74203f22 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 去る11月、大阪回生病院の久富顧問から「中之島時代の回生病院に勤めていた看護師の方3名が見つかった」とご連絡があり、お話を伺う機会を設けてくださいました。 今回お話してくださったのはヨシダさん、スダさん、アサウラさん。 一番長く在籍していらし

          病院の想い出を辿る/中之島の回生病院

          謎の建物の正体を追え!⑤創立120年の回生病院

          ・戦禍をくぐり抜けた3代目 大正15年から昭和初期の組織変更を経て、回生病院は「株式会社互恵会」として利益を配当しない株式会社として日本でも稀有なかたちで総合病院としての活動をはじめます。 しかしながら心新たに医療に励むなか、病院も次第に第二次世界大戦の戦禍に巻き込まれていきました。 昭和20年 5月1日の互恵会、株主総会において、病院経営権、建物その他設備一切を日本医療団に提供することが決定された。 6月1日ついに病院周辺が大爆撃にさらされた。病院の受付に爆弾が投下

          謎の建物の正体を追え!⑤創立120年の回生病院

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院④絵葉書の3代目本館と大広間

          日ごとに秋も深まる10月。最初に絵葉書を目にしてからちょうど1年が経ちました。かつて中之島にあった病院のお話にもう少しだけ、耳を傾けてくださると嬉しいです。 今回はいよいよ最初の絵葉書に描かれていた建物について触れていきたいと思います。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ・3代目本館の竣工 2度の焼失にも挫けず、菊池篤忠初代院長は回生病院本館再建の決断をします。 類焼せずに残った西病室に入院患者を移し、診療も暫くはそこで行っていました。 そして大正4年7月24日、病

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院④絵葉書の3代目本館と大広間

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院③燃え上がる王宮・初代と2代目

          初回の記事投稿からひと月と少し。 お手持ちの資料や古い地図から大阪回生病院の姿を探して下さる方もいらっしゃって大変嬉しい気持ちになりました。病院の関係者でもなんでも無い者達ですが、少しでもこの建物に思いを寄せてくださりありがとうございます。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ さて、大阪回生病院は堂島時代に初代、2代目、3代目とその姿を変えていきます。 設立由来が分かったのち、私と田んぼ氏は古本屋や絵葉書を扱う店舗、オークションなどから回生病院に関するものを少しずつ探し集

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院③燃え上がる王宮・初代と2代目

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院②設立由来と天神祭

          前回正体の分かった謎の建物・大阪回生病院。 絵葉書の場所から昭和41(1966)年に大淀区豊崎に移転、平成17(2005)年に新大阪駅前に再度移転して現在も診療を続けています。 かつての場所は現在の住所で言うと北区西天満2丁目、堂島関電ビル(積水化学大阪本社)が建っている場所にありました。道を挟んで東隣には大阪高等裁判所。そこは勿論控訴院があった場所です。 実際にこの附近を歩いてみるとぽつんとちいさな石碑が建っていました。 注意していないと見逃してしまいそうなものですが

          謎の建物の正体を追え!中之島の古城病院②設立由来と天神祭