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ラベルと辿る神戸の話-元町ホテル

早いもので今年も残すところあと1週間。古本市、初開催の建築イベント、今年は何かと神戸方面に足を運ぶ頻度が多い年でした。
古いものと新しいものが調和し、洗練された街並み、住む人はあたたかい港町。私が抱く神戸のイメージはそう言ったもので、出来るだけ背筋をピンと伸ばして優雅に歩きたくなる場所です。
(実際には北野坂や海岸通りの風に吹かれて縮こまっています。)

今回はかつて神戸にあったホテルの事と、それを調べていく過程で見聞きした事のお話です。
その前に神戸の開港について少しだけ触れておきたいと思います。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

-神戸港開港-

安政5年(1858年)の日米修好通商条約にて、諸外国との間では兵庫津(和田岬の辺り)が開港場として定められていました。しかしながらこの場所は当時人口密集地となっており、新たな港町の形成が難しい状況でした。
住民との揉め事を回避する事や、船が停泊しやすい条件を考慮した結果、かわりの開港地として兵庫津より東にある神戸村の海岸が選ばれました。
こうして慶応3(1868)年、函館や横浜より遅く、神戸港(当初は兵庫港と呼称)が開港される事になります。

神戸村は隣接する二ツ茶屋村、走水村と合併して明治元(1868)年に「神戸町」となりました。元々神戸村だった一帯は外国人居留地の建設場所として選ばれ、イギリス人土木技師J.W.ハートはこの土地を126区画に分割して、外国のような美しい港町へと整備していきます。これが今も名残がある居留地の始まりです。

区画の境界を現す標柱
住居前にあった門柱


街灯が設置され、外国人領事館などの西洋建築が建ち並ぶ居留地には瀟洒なホテルの姿もありました。
オテル・ド・コロニー、オリエンタルホテル、ヒョーゴホテル…。
居留地の内外に建てられたホテルは当初外国人専用の宿泊先や食事処として、また明治末期になって居留地が日本に返還されてからは上流階級の社交場として、さらに人々が集う場所になっていきます。
後に居留地から離れた所にはミカドホテルやトアホテルなども設立されました。

上:ミカドホテル 下:トアホテル


影響を受けたのは一部の富裕層ばかりではありません。
この地に洋食や洋服といった西洋の文化がいち早く浸透していったのは、神戸の商人達が居留地内外の外国人と交流を重ね、知り得た知識や文化を急速かつ柔軟に取り入れる気質を持ち合わせていたためです。
特に洋食の流行に関しては外国人にも高く評価されていたオリエンタルホテルが中心にありました。ホテルの従業員達がレストランのメニューや賄いからヒントを得て家庭で再現した事、修行を積んだ後に独立して自身の洋食店を持った事などから更に広まっていったとも言われています。

明治〜大正期 ホテルのメニュー表


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

"元町ホテル"のラベルを古書店から購入したのは今夏の初め頃。円型に合わせたデザインにシックな配色、そして「元町」と言う地名が気になったものです。
多数のホテルが神戸の人々、食や文学などに影響を与えて名前を残していますが、これは今まで見聞きしたことの無いホテルでした。
この元町ホテルは一体どんな存在だったのでしょうか。

"元町ホテル"のラベル

1.土地の歴史

ラベルそのもの、そして国立国会図書館デジタルコレクションから得られた情報は下記の通り。

神戸市神戸区元町四丁目にあった。
・昭和10年頃に関野菊次郎が設立。翌年組織変更した。
・合資会社元町ホテル設立時の記載より、住所は四丁目の59番地、61番地
電話番号 三宮 2427,2458
・ビルマ商人の宿泊記に登場し、「なかなか清潔で、きちんとしている、居心地がよい」「二流ホテル」などの記載がある。
・トアホテル、オリエンタルホテルに次いで紹介されている。(日本都市大観)

これらの情報を持って神戸市立中央図書館、神戸市文書館へ。相談に乗って頂きながら資料を集めた所、さらに幾つかの手がかりを得る事ができました。

まず、所在地について。
『神戸市神戸部切圖』明治35(1902)年より、元町四丁目の地番入り地図を見てみます。

神戸市神戸切圖 明治35年

そもそも元町と言う名前が生まれたのは明治期に入ってからのこと。
ここには古くから九州と近畿を結ぶ「西国街道」が通っており、既に複数の商店が建ち並び賑わいを見せていました。
明治7(1874年)5月、当時の県知事・神田孝平がこの街道沿いにある11の町に対して"神戸の元になる町"と言う思いを込めて「元町通」の名称を布告します。商店ごと取り込まれた西国街道の一部は、そのまま元町商店街と呼称されるようになりました。

地図はそれから約30年経った頃のもので、中央の大きな通りがその商店街にあたります。赤枠で囲った場所が59、61番地。他の土地よりもやや広く、商店街より北側の横小路に位置していました。拡大してよく見ると「學」と言う文字が確認出来ます。

明治期、ここには寺子屋から発展した学校や「神戸尋常小学校」の分校が建ち、幼児や小学生が学業に励んでいたようです。

神港商業学校沿革図 創業80年記念誌

商人の街では景気に左右されて学校の形態も次々と変化していきます。明治40(1907)年になると、59番地には「神港商業学校」が設立されました。

大正5(1916)年にこの商業学校は移転しますが、翌年同校の一部を転用して隣接地に「神戸市立女子商業学校」が開校します。
この女学校は、製糖や樟脳の売買で神戸港の貿易に大きな影響を与えた鈴木商店の主人・鈴木よねの寄付によって設立されたものでした。

元町4丁目時代の神戸市立女子商業学校 
創立80年記念誌より 

80年記念誌によると転用した校舎の老朽化は激しく、校外の施設を使う事も多かったそうです。
それでも女学校の移転後、大正14(1925)年~昭和8(1933)年までは「神港中学」(神港学園神港高等学校)の校舎として使われました。

四丁目の横道に元町ホテルが開業したのが昭和10年(1935)頃。年代にも相違ありません。
長年、学び舎として使われていた場所の跡地及び隣接地がホテルになったという訳です。

2.外観写真と交通

ホテル自体の詳細はどうでしょうか。
図書館内で閲覧可能だった昭和12(1937)年の電話帳には記載なし。『神戸市商工名鑑』昭和10年、12年、16年の旅館業一覧にも記載なし。

これらの商工名鑑には下記のような掲載条件が書かれています。

・営業収益税五拾園以上を納付する商工業者(発刊の1年前)
・本市内に本店または支店を有する資本金若しくは出資額五萬円以上の会社
・掲載資格があっても調査不能のもの及び営業の都合上登載を希望しないものは省く

『神戸市商工名鑑』昭和10-16年より抜粋


昭和10年発刊のものに掲載されていないのは開業時期からも納得できますが、それ以降は条件を満たしていなかったのでしょうか。

ここで、神戸市文書館の山本氏が持って来て下さったのが『大日本職業別明細図 神戸市』
東京交通社が40年にも渡って製作し続けた商業・工業に特化した地図で、裏面の広告欄では大小様々な企業や個人商店を職業別に索引することができます。
時には店舗の写真や絵が挿入されていて、官製のものより親しみやすい見た目です。以前、他府県の商店建築を調べる際にも大変役立ったものでした。

大日本職業明細図 神戸市東部 昭和11年
元町通の拡大図

元町四丁目付近を確認すると、しっかりとその名前が記されていました。元町商店街に面していない横道、これまでに調べた住所とも相違無さそうです。
そして幸運な事に、元町ホテルは写真も掲載されていました。

元町ホテルの外観

アールデコ調の玄関口に、洋風の外灯。ホテル名の上にはラベルにも使われていた「M」「O」「T」を図案化したマークが掲げられています。(下に一部写っているのはホテルから高架を越えてすぐ北にあった花隈ダンスホールの写真です)
入り口のみの小さな写真ですが、想像以上にモダンな外観に思わず声が出てしまいました。
続いて広告欄の方も見てみましょう。

大日本職業別明細図 裏面

こちらにはホテル名とマーク、電話番号の他に交通アクセスについて記載がありました。

「中桟橋乗船場上ル」
「神戸駅ヨリ約二丁東」(約218m)

この広告欄を見た山本氏から指摘があり、一つの仮説が浮かびます。
桟橋からのアクセスを一番に記載してあるのは、船を利用して来館する客が多かったのだろうと言う事。
旅行客は勿論、国内外の海をまわる商人や船員などが多く、観光ホテルのようなサービスは重視しない…今のビジネスホテルに近い宿だったのではないか。
そうするとビルマ商人の記録にあった「清潔できちんとしている」でも「二流」と言った記載も少し納得がいきます。

館内の設備については昭和16(1941)年の『神戸新聞』に下記のような広告がありました。

◎5月3日
  和洋室最新式設備完備
  各室へ電話・給湯洗面設備あり
  元町ホテル
  御宿泊料二圓以上
  元町通四丁目電三宮 二四二七 二四五八

◎5月18日
  神戸元町ホテル客室三八
  各電話設備あり
  神戸元町四丁目
  電話三宮二四二七 二四五八

『神戸新聞』昭和16年5月3日-5月18日,
令和5年10月6日

給湯設備が整っている事に加え、客室38室と小規模ながらそこそこの部屋数を有していたようです。玄関口の写真からも少なくとも2階〜3階建以上だったと思われます。
宿泊料については、同じ昭和16年頃のオリエンタルホテルで宿泊料6円〜(食事無し)。比較するとやはり元町ホテルは安価で泊まる事が出来る印象です。

昭和13(1938)年、東京では大型のビジネスマン向けホテルとして「第一ホテル」(現在の第一ホテル東京)が新橋に開業しています。
和風客室12室を含む626室の規模は当時東洋一の客室数、日本初の全館冷暖房を完備しながら良心的な値段設定と言う事で話題を呼びました。

"ホテル"と言うものが賓客をもてなす為の迎賓館としての役割やリゾート目的だけでなく、宿泊先としての実用面も重視される時代に入っていたようです。

3.水害と空襲

阪神大水害

新聞を閲覧する際、少し気になる事がありました。昭和10年代に営業していたのなら、元町ホテルは未曾有の災害・阪神大水害の被害も受けていたのではないか。
当時の被災状況を色分けして示した『新生田川宇治川間災害地図』を見てみます。

新生田川宇治川間災害地図 昭和14年
凡例

阪神大水害が起こったのは昭和13(1938)年7月。
7月3日~5日にかけて降った集中豪雨によって六甲山地の土砂災害が起こり、山津波とも呼ばれた濁流によって市内の3分の1が埋まる大惨事でした。
生田川は暗渠の入り口が土砂で塞がって溢れ出し、三宮駅周辺が冠水。元町周辺では宇治川が溢れて元町六丁目側から土砂が流れ込みました。
凡例を見ると緑が「浸水一尺未満」で、緑→黄→青→赤の順に浸水度が増していきます。

元町通周辺の拡大図

四丁目北部を見てみます。すっかり浸水してしまった五丁目、そして元町商店街から南側に対してホテルのあった横道(赤い三角で示した箇所)は着色がありません。
少し高台になっていた花隈付近も同様です。
全く被害が無かったとは言えませんが、これを見る限り立地が幸いして、建物自体に致命的なダメージは無かったと思われます。

第二次世界大戦下の空襲

大水害を経て、先程紹介した昭和16年の新聞広告が掲載され、昭和17年の電話帳でもホテルの営業を確認する事が出来ました。
しかしながらそれ以降については一切情報が無くなります。

戦時下に於いて、国際定期航路は閉ざされて商船は国の管理下に置かれました。国際観光局の廃止によって観光客も減少し、ホテルや旅館の営業は厳しい状態に置かれます。この時点で早々に閉業していたかもしれません。
仮にもし営業を続けていたとしても、神戸空襲を免れる事は出来なかったでしょう。

◆全国主要都市戦災概況図 (国立公文書館デジタルアーカイブ)
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/en/0000000167

昭和20年3月、5月、6月の大空襲を受けた神戸市域は壊滅状態でした。海岸通りのオリエンタルホテルは半壊(後日取り壊し)。同時期に近くで営業していたヤマトホテル、神戸ホテルも焼失。
『戦災概況図 神戸』で"もとまち"と書かれた駅の西側は焼失区域としてしっかり赤色で着色されています。
元町四丁目周辺の写真には瓦礫や残骸ばかりが写り、ホテルらしき建物を確認する事は出来ませんでした。

4.ホテルのあった場所へ

元町ホテルのあった場所を現在の地図で確認してみます。マリンロード沿いに位置するこの場所に路地は消失。かつて横道の入り口だった場所にはモトコ―(元町高架通商店街)から移転してきた書店と、喫茶店が並んでいました。

古書店と純喫茶の並びが良い

気になっていたお店と探していたホテルの場所がほぼ同位置だった…こんな偶然もなかなか無いので手前の純喫茶ベアに入ってみます。
扉を開けるとそれこそホテルかサロンのような空間が広がっていました。花隈で育った奥様とマスターが先代から受け継ぎ、落ち着きのある美しい店内を保っています。


純喫茶ベアの内装

注文後、奥様にこれまでの経緯を話してみると、
ラベルと地図をじっくりと眺めてから
「確かにこの場所です。裏手にこんなホテルがあったんですねえ」と写真に収めておられました。

戦後、先代がお店を開店してから今年で60年。
高級花街があった花隈に近い立地のため、昔は外を少し歩くと三味線の音が聞こえてきたのだそうです。
「木造の良い建物は震災で殆どなくなってしまって。もっと風情のある町でしたよ、今も良い町ですよ」と柔らかく笑って教えて下さいました。

どこか親和性のあるメニュー表とホテルラベル


開港以降、急速に発展した神戸の街は水害、空襲、そして震災の被害によって失われてしまったものが沢山ありました。そのいずれも潜り抜けて現代に残った素晴らしい建物や文化があり、一から作り直されて新しく生まれ変わる度にその時代の人達を支えたものもあります。
伝統と舶来、古いものと新しいものが調和する街。
純喫茶ベアの奥様が関心を寄せてお話を聞かせて下さった時に"土地を愛する"と言うのはこういう事かな、と思ったのです。それは開港の頃から変わらぬ心の在り方かもしれません。

元町ホテルは変化の中で埋もれてしまいましたが、港を訪れる人を迎え入れていた時代が確かにありました。
その一片のラベルがよすがとなり、時代を超えて神戸の街を歩かせてくれたのでした。

5.高架の絵葉書

一連の内容をいつもお世話になっている友人・ryugamori氏に話したところ、少し経ってから一枚の絵葉書の画像を送ってくれました。

市街を貫通せる高架鉄道

『市街を貫通せる高架鉄道』と言う題がついたこれは、元町六丁目から北東を写したものと思われます。
鉄道の高架化は、JR線の山側・第一期工事が昭和6(1931)年、海側・第二期工事が昭和12(1937)年に完了。
元町駅は昭和9(1934)年に開業し、元町-神戸間も高架化されました。高架の向こう側にはモダン寺の愛称で知られる本願寺別院の姿もあります。

気になる建物

東の方(右端)をじっと見てみると商店街の少し北側、元町五丁目の向こう側辺りに小さく写る洋風のビルがあるのに気付きます。商店街には面しておらず、3階建くらいで、1階側面の窓には庇テントのようなものが付いています。
撮影時期は分かっていません。けれども、もしかするとここに写っているのはホテルなのではないのか…。
2人で淡い期待を抱きながら、またそれぞれ次の古本市へと出掛けていくのでした。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

最後になりましたが、一個人の調べ事に快く協力してくださった神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様に心より御礼申し上げます。

(文:りせん、編集:ryugamori)

【参考文献】

藤尾幸一.『神戸市神戸部切圖』兵神館商事社編,1902-1903年
運輸省.『日本ホテル略史』,1946年
運輸省.『続 日本ホテル略史』,1949年
東京交通社『大日本職業別明細図 神戸市東部』,1936年
神戸市経済部産業課. 『神戸市商工名鑑 〔昭和10年版〕』神戸市経済部産業課, 1935年
神戸市経済部産業課. 『神戸市商工名鑑 〔昭和12年版〕』神戸市経済部産業課, 1937年
神戸市経済部産業課. 『神戸市商工名鑑 〔昭和16年版〕』神戸市経済部産業課, 1941年
神戸市.『神戸市水害史 附図〔地図〕』,1939年
帝国秘密探偵社.『大衆人事録 近畿篇』,1940年
大阪毎日新聞社.『日本都市大観 昭和11年版』,1936-1940年
神戸中央電話局.『神戸.御影.垂水.六甲山電話番号簿 昭和十七年十月一日現在』,1943年
第一復員省.『戦災概況図神戸』,1945年
オリエンタルホテル三十年の歩み編集委員編 .『オリエンタルホテル30年のあゆみ』,1956年
鹿児島大学教養部史学教室.『鹿児島大学史録 = Shiroku Kagoshima University (14)』,1981年
神戸市立神港高等学校.『創立80周年記念誌』,1987年 
大蔵省印刷局 編.『官報 1935年07月23日』,1935年
大阪読売新聞社神戸支局 .『神戸開港百年』中外書房,1966年
株式会社第一ホテル.『夢を託して:第一ホテル社史』,1992年
木村吾郎 『日本のホテル産業100年史』 明石書店,2006年
木村吾郎 『日本のホテル産業史論』 ,2015年
齋藤尚文.『鈴木商店と台湾‐樟脳・砂糖をめぐる人と事業‐』,2017年

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