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マーケティングは 愛

大学進学が決まった時、知り合いの人が1冊の本を貸してくれた。
『こころときめくマーケティング』という本。
マーケティングという言葉を、この時はじめて知った。正直に言えば、この本を1冊読んでも「マーケティング」が何か、理解はできなかったのだけれど、希望にあふれる人生論のような、すてきな本だった。「マーケティング」というものが、とてもキラキラした魅力的なものとして、私にインプットされた。

この本の著者は、進学予定の商学部の名物教授で、マーケティング論の第一人者で、私が入学して2年で退官されるということも、この本を貸してくれた人が教えてくれた。

1年生のときに「商学概論」という授業があった。学部の先生たちが、2~3週ずつ交代で、それぞれの専門分野について講義をしてくれる授業。学部でどんなことが学べるのか、さわりのところを、ちょっとだけ教えてくれる。
「商業学」の週には『こころときめくマーケティング』の著者の先生が来ると言う。一番前の列で講義を聴いた。その週だけは、教室内の空席も少なかったし、大学1年生には到底見えない、社会人らしき人たちが教室の後ろの方に大勢いた。

ロマンスグレーのダンディな先生は、右肘を教卓についてマイクをカッコよく持ち、少し前かがみの姿勢で、こう言った。「マーケティングは、愛です。」

講義の内容は、『こころときめくマーケティング』で読んだ内容と重なることも多かったけれど、その語りの巧さに聴き入った。
自分で買った『マーケティング入門』の本には、「マーケティングの4P(Product・Price・Place・Promotion)」なんてことが書いてあって、同じことについて語っているとは思えなかったけれど、そんなことは気にならないくらい、楽しかった。

商学部は、2年生で取らなくてはいけない必修科目がわずかしかない。2年生のはじめ、何の授業を取ろうかと考えて、思いついた。先生の最後の年の講義を聴こう!
3年生以降はキャンパスの場所が変わる。先生の授業がある水曜日は、授業を入れないことにした。

毎週水曜日は1日「もぐり」の日になった。2限は先生のマーケティングの授業、3限は歴史、4限は教育学・・・という具合に。これはいい過ごし方だった。
先生の授業は、毎回感想レポートを提出する。私は「もぐり」の学生だったので、レポートを出しても仕方がなく、毎週、感想を書いた手紙を郵送した。必ずハガキが返ってきた。(余談だが、先生は1日に100枚以上のハガキを出していたらしい。だから、私に必ずハガキをくれたものの、それは「来た手紙には必ずハガキを返す」というルーティーンの1つに過ぎなかったんだと思う。)

3年生からゼミが始まる。計量マーケティングのゼミに入った。数値的なデータを元に、分析をしたり、その分析に則ってマーケティング戦略を考えたりする。統計ソフトの使い方を学び、回帰分析ができるようになった。

「愛」とは程遠い気がしたけれど、私は、ゼミに入って、マーケティングという学問を学び、そこで初めて「マーケティングは愛」という言葉のニュアンスが分かるような気がした。
提供する人から使う人へのコミュニケーションの全てがマーケティングであり、使う人にとって本当に必要なものを届けたいと思う気持ちが、「愛」なんだろうと思った。

その「愛」は提供する人から、使う人へ、という一方的なものではない。モノやサービスを作ったり、運んだり、手渡したり、伝えたりする人たちにとって、自分たちが働いていること、何かの役に立つこと、世の中と関わっていることそのものが、喜びであり誇りなのだと思う。それは、確かに「愛」だな。自分に対して、働くって行為に対して、喜んでくれる相手に対しての「愛」に満ちている。

ある講義の日、先生は〈幸せな牛の牛乳はおいしい〉と話していた。自分自身が幸せな状態の時、その人が生み出す製品やサービスは、きっと次の誰かを幸せにする。
そんな風に、商業の仕組みを使って、製品やサービスや金銭だけではなく「想い」や「こころ」が伝播することを「マーケティングは愛」だと表現したのかもしれない、と、私は思っている。

マーケティング、という言葉は、在学中は誰もが使う言葉ではなかったけれど、その後どんどん一般的な言い回しになっていった。あの頃学んだことは、実務としての「マーケティング」と言うより、商業学の根っこにある理想というか良心みたいなものだったのかもしれない、と思う。

今、確認のために調べてみたら、入学前に読んだ本には副題がついていた。
『こころときめくマーケティング―夢・感動そして知恵に磨きを』。

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