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求められる情報の在り方が変わってきた

オリンピックは忙しすぎる。

あっ。この記事は、オリンピック開催の是非とか、報道の在り方の是非とか、そういう批判を言いたい訳ではない。ただ、連日のオリンピック報道を見ていて、私たちが知りたいと思う情報の在り方が随分違ってきたなぁ、と感じたのだ。4年に1回、似たようなプログラムを元にした情報が提供されるオリンピックだから、その違いが見えやすかったんだと思う。
そして、情報量がどっと増えた今「コンテンツの伝え方」も変わっていくんだなぁ、と、改めて思った。

ラグビーワールドカップはどうだった?

忙しすぎるオリンピックとの比較として、2019年のラグビーワールドカップの時のことを思い出したい。ワールドカップ期間中は、週1回くらいのペースで試合が行われていた。試合のあと、1週間の休息が必要なくらい激しいスポーツなんだな、と思ったことをよく覚えている。試合が終わって次の試合まで1週間あるから、その間は、1試合分の情報を何度も反芻し、味わい尽くすように細かなことまでが報道された。サポートをする選手がどんな役割を担っているのかも解説があり、目立った活躍をする以外の選手の顔と名前も有名になった。対戦相手の選手も紹介された。名シーンは、何度も何度も繰り返し見た。その全ての「情報」が、テレビでも、新聞でも、ネットニュースでも、個人のSNSや動画でも発信され、勝手にメディアミックス状態が起こっていた。1つの試合には、勝った負けた何点取った、という情報だけではなく、もっと階層の深い情報が多々あるということを象徴的に経験したように思う。

人は、心理的に、何かと接する回数が多いだけで親しみを持つと言われている。ワールドカップ期間は、ラグビーというスポーツに親しみを抱き、選手や競技について、もっと知りたくなった人が多かったんじゃないだろうか。

オリンピックの情報を深める余裕がない

さて。あの時のことを思い出すと、本当にオリンピックは忙しい。毎日毎日複数の競技が同時進行で実施されていて、毎日毎日新しい主役が登場する。始めて見た競技や、始めて知った選手のことを、ちょっと気になるな、と思っても、どんどん新しい競技結果が報じられて、「ちょっと気になる」を深めている余裕はない。

もちろん、ちょっと気になる、ではなく、かなり気になれば、調べる手段はいくらでもある。でも、そうやって、気になったものを、例えばネットで検索して、選手のことや競技のことを調べていると、情報が多すぎて処理しきれない。

1つの競技を実施すれば、多くの情報が生まれる。その情報を処理する時間が間に合わないうちに、新しい情報が生まれていく。

そして気づく。こんなに沢山の競技の結果だけを、淡々と伝えられても、あまり知りたいという意欲が湧いてこないことに。

かつては、複数のスポーツが一同に会することが、オリンピックの魅力の1つだったのかもしれない。でも、今は、競技が増えすぎて、どのスポーツについても、表面的な結果を伝える余裕しかないように見える。

自分だったら 何を伝えるだろうか

もし仮に、私が小さなメディアを運営していたら、オリンピックという膨大な情報の中から、何を伝えるだろうか。

例えば、1つのスポーツに絞って、そのスポーツの情報だけを厳選して伝えたくなるんじゃないか。そのスポーツのルールや歴史、過去のレジェンド、世界中の選手の紹介、試合中の駆け引きの解説、試合と試合との間にも続く駆け引き・・・とか、深めたくなる情報は沢山あるだろう。取材すればするほど、伝える側にとっても、その競技への愛着が募っていくんじゃないか。

あるいは、
競技と競技との間合いや、選手が精神集中するまでのための時間が大切なスポーツの「間」を、ちゃんと味わうような、競技の本質をいかに伝えるかに挑戦する見せ方とか。
あまり有名ではないスポーツを予選から全部見せつつ、そのスポーツを始めたい人向けの最初のトレーニングや始め方を教えるような参加を意図した構成にするとか。

つまりは、情報が増えているからこそ、情報に文脈を作ること、取捨選択すること、他とは違う〈物語〉にすることが、必要なんだと思う。それを編集力、と呼ぶのかもしれない。

欲しい情報の在り方は変わりつつあると思う

こんなに長々と書いてきたが、オリンピックは事例にすぎず、オリンピックのことを言いたい訳ではない。

世の中には情報が溢れている。私の専門分野に関して言えば、子どもの遊びが発達に与える効果、夏休みに適した工作のネタ、親子遊びのネタ、知育的に効果のあるおもちゃ情報、よい絵本の紹介・・・そんな情報が、本当に溢れている。

子どもの発達全般に関する知識とか、非認知能力が何かとか、自由研究に役立つネタを100も200も掲載するとか、そういう「誰にでも役立つ辞書的な情報」は、発信力の強い人(または企業)のコンテンツが既にある。

でも、個々人が求めている情報は、辞書的な情報ではなく、自分事としてもっと知りたいと思う〈物語〉なんだと思う。

私のように個人の発信者で、誰かの役に立つ情報を届けたいと思う者は、幅広く情報を網羅することよりも、自分なりに選び取ることが大事なんだと思う。つまり、文脈を作り、取捨選択し、その分、個々の背景や詳細まで深めていき、他との違いを明確して発信する時、その情報は唯一無二のものになれる。
私で言えば、早期教育や先取り教育は、選ばない情報。その分、親子の初めてのチャレンジという場面を切り取り、大人の心に寄り添い、子どもを観る視点を伝えて、「はじめて」という親子の物語にフォーカスする・・・という風に。

情報の価値が二極化している

「情報」は、本来とても価値のあるものだった。「情報」にアクセスできる人は、社会的にも高いポジションまで上り詰めることができた。また、「情報」にアクセスするための、読み書きや理解力、判断力という「知識(リテラシー)」も、同様に価値のあるものだった。調べもののために図書館に行ったり、博物館に行ったりした。

もちろん、今でも情報に価値があることに変わりはない。けれど、かつて、限られた人しかアクセスできなかった情報の多くは、誰もが気軽に見聞きすることができるようになり、「価値はあるけれど特別ではない情報」になってしまった。

だから、これから何か情報を発信していく時には「価値があり、自分にしか発信できない特別な情報」かどうかを、意識していく必要があるのだと思う。大変だ。ま、こんなに情報があふれている現在において、誰かの役に立つ情報を発信していこうとすることは、大変で当然なのだ。

だからこそ、自分なりに編集した発信が誰かに届いた時、ずっとずっと大きな喜びが得られるのだと思う。1つ1つの発信が、次の誰かの物語につながることを願って。


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