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面白い文章について考えてみた

 1年半ほど前から、「どうやったら面白い文章が書けるのか?」「そもそも面白い文章って何なのか?」「手っ取り早く面白い文章が書けないか?」なんてことを断続的に考えている。

 なぜかって、トロントで発行されている月刊情報誌TORJA映画コラムの連載を書くようになったから。それまで、トロント国際映画祭の上映をひとりフラフラ見に行っては好き勝手にブツブツとツイートする、ってなことを続けていたら、TORJAの編集長に見つかって…じゃなくて声をかけていただいて、うっかり(?)連載を書くことになってしまった。月1本の800字で、「ツイッターの延長でいいから」と言われ、「それならまあ140文字のツイート6つ弱だし、まあいいか」と、なんとなく書き始めてしまった。

 書いてみたら、他人が読んで面白いものになっているのかどうか、自分ではよくわからない。何人か、ツイッターでフォローしてくれているリアルな友人が面白がってくれてはいるものの、私と面識があるから面白いってこともあるだろう。私のことをまったく知らない人が読んでも面白いものになっているのかと考えると、さっぱりわからない。そのうち、「つまんねえ読んで損した時間返せ」って誰かに怒られるんじゃないかとドキドキするようになった。それで、「面白い文章ってどう書くんだ?」と、だいたい月1回のペースで考えるようになった。

 そうはいっても、私は普段から物書き的な仕事をしているわけでもないので、本腰を入れて考えてはいない。だから月1回、いつも原稿を書く段になって、思い出したように考える。「手っ取り早く面白い文章を書きたい」と思いつきでググってみて、「どうやら面白い文章を書くためには面白い人間にならないといけないらしい」なんて結論を得るに至り、軽くヘコんだりもしていた。

 そんなふうにして休み休み考えていたところ、ふと、「こういうことじゃないか?」と思い当たることがあったので、それについてちょっと書いてみようと思う。

面白い文章を作る2つの要素

 まずは、私が昔から思っていたこととして、面白い文章は2種類に大別されるのではないか、ということ。ひとつは、ことばそのものが面白いもの。もうひとつは、内容が面白いもの。

 前者は、ことばの響きだったりリズムだったり、ことば自体に由来する。韻を踏んでいるとか、ボケとツッコミの間合いみたいなものもあるかもしれない。つまりは語り口そのもの。くだらない日常の出来事を書き連ねているだけなのに、やたらと面白くて読ませる文章っていうのは、だいたい文体そのものが面白い。

 これに対して後者は、物語の面白さだったり新たな知見を得られるものだったり、その文章で語られる内容そのもの。論文なんか、文章自体は面白くもなんともなく、堅苦しくてうんざりする場合でも、そこに書かれている内容が面白ければ、すごく面白くなる。

 このどちらか一方の要素だけでも文章は面白くなると思うけれど、両方の要素がそろったとき、さらに面白くなる。私は昔から何となく、そんなふうに思っていた。

内容が面白い文章の2種類の方向性

 これに加えて最近思うようになったのが、内容が面白い文章は、さらに2種類に分かれるのではないか、ということ。「感情」の方向と、「情報」の方向と。

 「感情」のほうは、いわゆる感動する物語だったり、深く共感する登場人物の心の動きだったり、心を揺さぶられる内容のこと。これに対して「情報」のほうは、今まで知らなかった事実だったり、自分では思いつかなかった視点からの見解だったり、知的好奇心が満たされる内容。

面白さの3要素の組み合わせによりできるもの

 つまり、面白い文章の要素として、まず「ことば自体の面白さ」がある。次に、語られる内容の面白さがあるけれど、それは「語られる感情の面白さ」と「語られる情報の面白さ」に分かれる。文章の面白さとして、この3要素が存在する。これがどう組み合わさるかによって、なんとなく、その文章の属するジャンルが分かれていくように思う。

 まず、「ことば自体の面白さ」は、商業ベースの読み物に存在するように思う。論文や教科書で文体がやたらと面白いなんてことは、まずないでしょ?という感じ。

 商業ベースの読み物の中で、「ことば自体の面白さ」と「語られる感情の面白さ」が両立するものは、エッセイに多い気がする。また、「ことば自体の面白さ」と「語られる情報の面白さ」が両立するものは、コラムに多い気がする。

 小説の場合、「ことば自体の面白さ」と「語られる感情の面白さ」が両立するものは、「文学」と呼ばれているように思う。そして「語られる情報の面白さ」が突出しているのが、ミステリのジャンルではないかと思う。トリックとか伏線とか、読み進むにつれて「情報」を得ることで、ラストのカタルシスにつながっていく。また、「語られる情報の面白さ」は、文章の構成の面白さによるところもある。たとえば、章ごとに複数の登場人物の視点から語ることで、ラストに向けて核心に迫っていく構成の場合、情報を小出しにすることで「語られる情報の面白さ」が増幅するようにしかけてある。

結局、面白い文章を書けるようになったのか?

 「面白い文章には3要素あって、その組み合わせによって、つまりはこういうことよね」みたいに、ここまで偉そうに書いてきたものの、それで結局、私は面白い文章が書けるようになったのか? と考えてみた。

 まず、「ことば自体の面白さ」だっけ。べつになんてことのない文章よね、これ。リズムがいいわけでもなければ、ことば遊びが面白いわけでもない。落第。

 次に「語られる感情の面白さ」ね。私が面白いことに出会って感動するとき、「ねえ、ちょっと聞いて聞いて! すごく面白い話があってさ!」って感じに興奮しているものだけどね。あるいは悲しい出来事でも、言葉にならないほど深く共感するとか。この文章にそんなものがあったっけ? ないね。落第。

 最後は「語られる情報の面白さ」だったね。「面白い文章には3要素あってだな、ほう!なるほど!」って感じになるか? この文章で。いや、たぶんならないね。落第。

 やっぱり面白い文章は書けそうにない。

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