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タイタニック号の演奏家は人生ハードモード。私のアイデンティティ宣言

こじらせた私のアイデンティティ。

【アイデンティティ】
自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。

 “アイデンティティ” なんて言葉を覚えたのはいつだろうか。
この言葉を使ったいちばん古い記憶は高校一年の春だ。中学の頃クラスが同じで、近所に住む秀才の在日中国人(後に帰化した)の親友と、千葉駅近くのサイゼリヤでお互いの近状や様々なことを語り合った時だったと思う。アイデンティティという言葉自体は、耳にしたことはあってもその意味なんて考えたことも無かったし、知らなかった。でも、その親友が言うにもこの言葉はとても不確かで日本語に訳すには輪郭のない言葉らしかった。


 執筆作業の楽しみを見つける以前、私は “芸事” で成り立つ人間であった。芸能関係の仕事をしている両親の間に生まれ、父親は演劇オタク母親は映画オタクという環境で育った私は、3歳からダンスをして舞台に立つことが生きがいとなり、日芸演劇学科演技コースなんて場所に身を置くようになって23歳を迎えた。我が家の正義は芸に精進し、芸で飯を食うこと。生業を芸とすることは私の運命であるかのように生きてきた。文章を書くことが最近の私の救いになっているが、これもまた表現であることには変わりなかったし、芸事だけで生計を立てられない自分のもう一つの楽しい副業のようなものであった。

 ここまでで分かる通り私のアイデンティティ、それは表現なのである。
これはきっと、ある人から見れば自分の好きなことが明確でキラキラと輝いて見えるだろうし、また別の人から見れば中二病をこじらせたピーターパン症候群のように映るだろう。
 社会人になってからは、この二方面から私という人間を見つめてみたりして、考え悩み傷ついたり開き直ったり、何周も廻った末、現在自分自身のアイデンティティは表現であると改めて言えたりする。まったく、こじらせた大人になってしまったものだ。

 何周も廻って “表現” をアイデンティティと認めたところから今回のエッセイの本題に入ろうと思う。(前置きが長いのが私の “表現” だ)


コロナ禍で巻き起こった“アイデンティティ論争” 不要不急の自我

 現在時刻は4月27日17時46分。新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、毎日感染者の数が発表され経済は停滞し、仕事は当面の間休止、外出を罰する法律は作られず、マスク姿の人は一定数見られるのにどこか罪悪感がみんなの心を漂い、明日は我が身、暗い病と死の恐怖に苛まれる今日この頃である。こんな風に文字に起こしてみると信じられないほど救いのない現状で、むしろどこか安っぽいB級映画のストーリーのような気がしてくるけど、これが現在の日本そして世界なのである。最近起きたいい出来事といえば、経済活動がストップしたお陰で二酸化炭素の排出量が減ったことくらい。こんな世界線、選ぼうとして選んだわけじゃないのになにかに負けた気もする。人間の敗北、地球が地球自身を浄化し始めたようにも思える。
敵は人間だ。


 そんな今、アイデンティティは表現と改めて言い切った私の心中では、第何次だかの “アイデンティティ論争” が繰り広げられているのだ。
 コロナウイルスで登場した言葉。それは “不要不急” だ。今年の新語流行語大賞ノミネートは確実のこの言葉が私のアイデンティティを狂わせた。
 ロックダウンできない日本では不要不急の外出を自粛し人が集まる環境を最小限にするために様々な産業がストップした。飲食店やアパレル、風俗にスポーツジムなど、生きるために必要なもの以外は全て不要不急であるのだ。
 
 ということは、芸術特に演劇や舞台で行われる表現活動はすべて不要不急。生死に関わらないもの。生きるために必要のないもの。それは私自身、私のアイデンティティが否定されるということだった。


私たちが生きる理由の変化。マズローから考える。

 今世界は、マズローの六段階欲求でいう第一・第二段階の欲求を満たすために生きていると言えるだろう。安全に暮らしを営むことだ。

ウイルスにかからないために家の中にこもる。それさえ守っていれば私たちの命は守られる。空の上から爆弾が落ちてくるわけでもなければ、誰かが家の扉をこじ開けてくるわけでもない。(ここでは経済困窮による第一・第二段階の欲求の欠落は論点に入れないことする) 補償のある生活を営めている今の私の命を脅かすものはウイルス以外にはないのだ。
 でも、不要不急という言葉によって命と同じくらいに大切であるもの、変わらない己の主体であるアイデンティティが脅かされた。なぜならこのアイデンティティは第六段階の欲求であるからだ。
 第六段階の欲求とは、自己実現欲求だ。私たち現代人は日本という資本主義経済の先進国に生まれ、そして現代のインフラが整備された中で様々な産業が作られた。これは表現をアイデンティティにしているという人以外も当てはまる。生きる以外の “楽しみ” としての産業は日本において有り余るほどあり、経済を回しキャリアアップを目指すという自己実現欲求を満たすために仕事をすることが許されていた。だから、私たち現代日本人の多くは命を守るということに疎く、またアイデンティティや生活の大部分が自己実現欲求を満たすことによって構築されているという人が一定数存在するため、在宅自粛が苦痛となってしまうのだろう。


表現者たちのアイデンティティは死んだのか。再度問いかけてみた結果

話を戻して、そんな私のアイデンティティが否定されてしまった今、自らのアイデンティティを再度問い正している。表現という自己実現のために生きてきた今までの私と、このコロナ禍によってこのアイデンティティを持って生きることのもろさや虚しさを感じている現在。結婚や出産という人生のイベント願望でさえ自己実現欲求が打ちのめしてきたのに、世の中が自己実現を叶わないものだとしたときにやっと自分の人生と向き合い始めた気がするのだ。

 
自己実現=夢を実現させること

道徳の教科書にキラキラのラメペンで書いた自分の夢を追いかけることだけに人生の意味を見出していた私。それが生きることだと、生きている意味だと思うことは私の精神を殺すものなのかもしれない。今回のコロナ禍で気づいたこのことは、夢破れることよりもずっと残酷であった。

 じゃあ私のアイデンティティは表現じゃなくなるのか?いやたぶんこれはいつまで経っても無くならない。アイデンティティなんて自ら操作してどうにか変えられるものではないから。それが出来るのなら、もっともっと前にアイデンティティの変換作業をしているだろう。今私が考えられるのはこのアイデンティティを持ったまま、どうやって全く元通りにはならないであろうコロナ禍によって変化した世界と共存していくのかだ。
 ふと気がついたのは、眠れないほど不安になってエッセイにまでしたこの “アイデンティティ論争” なんて今までだってやってきていたのだということだ。生活が出来なくなってライターを始めたことも、ショーパブでダンサーとして働いたことも、このアイデンティティが私を縛って離さないから、どうにか自分で自分の表現できる場所を探して需要のある道で表現が出来るように自分自身が変化してきたではないか。表現媒体を変え、新しい手段を見つけてきたではないか。

 これからはその “表現できる場所” が簡単に見つかることが難しくなるかもしれない。第一・第二段階欲求を求めて働く世の中はまだ続くはずだから。だったら、その世界線に“表現すること”を組み込めばいい。現代の私たちは、安心安全で命が守れても、精神は守れない。精神が死んだら命を落としたも同然である。だから命と同じくらい大切な精神を守るために、私は表現していけばいいのだ。 “重要至急” の表現をすればいい。
 それが出来る場所はきっと作られたものではなく、自分で作らなくてはならないと思う。なんてったって “重要至急” なんて今検索して知ったし、電報以外に聞いたことがない。そんな表現活動は 「タイタニック号が沈みゆく間際にクラシックを演奏をしはじめた演奏家たちくらい・・・」

 これだ!映画タイタニックで、タイタニック号が海に沈んでいく最中演奏家たちが出来ることはそんな間際でも音を奏でることだった!

 命の危険が迫っても表現する者たちに出来ることは、表現によって人々の精神を救おうとすることだ。1912年から変わらない!だったら、そんな世界線でも私は表現し続けていいのだと思う。どこまでいってもどれだけ危険でも経済活動がままならなくても人が歌を歌うのなら、いつだって表現は重要至急だ。
 
 重要至急な表現を経済活動として需要を生み出し表現する場所を作り出すには、まだまだ先は長いしすぐに答えがでることではない。でも、表現をアイデンティティにしても生きていける世界だと分かった今、コロナ禍で停滞する世の中で誰よりも強くなった気がする。
 
 “表現”というアイデンティティ。これを持ち合わせて大人になってしまった私の人生はハードモードかもしれないけれど、いつでも立ち上がれる強さがあるのだ。 
 
 さて。この我他で表現活動をした本日も。自信を持って声高らかに宣言しよう。

 私のアイデンティティ。それは表現すること。 
 
 

 

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