見出し画像

身を滅ぼす愛し方について

「国を滅ぼすくらいの美しさがあったらいいのに」と、楊貴妃の超簡略エピソードを聞いてそう考えたのは、たぶん中学か高校の頃。「美しい」は正義。誰もが優しくしてくれるし、仕事の幅だって広がる。もって生まれたパーツでほぼ勝敗が分かれてしまう、その美しさをうらやましく思っていたことがあった。

大正時代の私小説・谷崎潤一郎「痴人の愛」には、“美しさ”に人生を狂わされた男の話が書いてある。15歳の娘「ナオミ」を、28歳の主人公「譲治」が見惚れてしまうところから話は始まった。何回かデートを重ね、一緒に住み、自分好みの女に育てはじめる。けれど、どんどんわがままになり、生意気になっていくナオミ。そんな性格とは反して、身体や顔は譲治にとって、吸い込まれるほどの魅力を増す。どんなひどいことをされても、そんな彼女から離れられなくなっていく譲治……。

なんでも自分の思い通りになる、自分に惚れているという確信がある、というのは、後にその人をつまらなくさせる。答えや未来が予想できる世界は退屈で、張り合いがないのだ。

思い通りになることが前提だから、言うことを聞いてもらえない状況は意味がわからない。何もしなくても愛が与えられるのであれば、何かをしようとする気も起きなくなってしまう。人間はきっと、そんなものなのかもしれない。

ナオミが譲治の一番弱いところを掴み、それをもてあそびながら、どんどん状況が悪化していく様子は恐ろしくもあり、けれどどこか「そうなることは当たり前だ」と納得するようなものでもあった。

怖いぐらいの美しさに憧れていた。国を滅ぼしてしまうくらい、誰かがダメになるくらいの美しさには、恐ろしくも魔法のような魅力があるのだろう。私はそれを、もっと崇高な、“避けられない事実”としての魅力なのだと思っていた。

恐らく実際は、「国を滅ぼす美しさ」の背景に、誰かを利用しても自分の幸せを得たいという思想が隠れているのかもしれない。美しさは幸せを生むもの。人々が苦しんだり堕落していくのは、美しさを利用した、悪魔の意図がそこにあるからだ。その”悪魔の意図”を作るのが、支配される溺愛や、意思の無い愛し方なのかもしれないなぁと思う。

歪んだ愛に読む手が止まらなくなる一冊でした。

最後までありがとうございます!いただいたサポートは、元気がない時のご褒美代にします。