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滝に打たれて感じた「考えない」瞬間

宿坊に泊まり、朝5時半から滝行をしてきた。取材も兼ねているので、詳しいことは記事を書いてからにしようと思うが、ずっと気になっていた滝行をやってみて心に残ったことを1つ、書いておきたい。

「滝に打たれたいな」と思ったのは数年前。長いことお付き合いをしていた人と別れ、自分の人生に精神を集中させたいな、と思ったから。けれど当時は雪も降り出しそうな年の瀬。仲良しの同期に「滝行を考えているんだけど」と話すと、「私のことを愛してるならやめて」と言われてその時はやめたのだった。

「今回は夏だし、いいよね?」と聞いてみたら、もう勝手にしてくれと言わんばかりの表情で「最近暑いし、ちょうどいいかもね」と言って送り出してくれた。

泊まりに行ったのはとある山の上。標高900m近くあるそこは、どんなに暑くても毎年30度は超えないという。けれど最近の猛暑でどんどん気温も上がっていって、滝の水も日に日に少なくなっているらしい。

普段の水温は10度だと、滝行をレクチャーしてくれる神主さんが教えてくれた。今回はそれでも温かいほうだ、と言っていたけれど、いざ入水してみると、肌に突き刺さるように冷たい。

実際、滝に打たれるのは10秒を3回。山道を歩いて滝にたどりつくまでは、短い時間だな、と思っていたけれど、いざ滝を前に、手足に水をかけていると「10秒ももつかな……」と不安になってくる。

打たれている最中は神様の名前を大声で3回唱え、その後手で刀を作り、自分の前で切ってから出てくる。冷たい水の中、必死でそれを繰り返す。

3回終わった後には、身体がすごくスッキリした気持ちになった。

滝行用の白装束から着替え、帰り道を歩いている時にその瞬間を思い出すと、不思議なことに目の前の景色だけが思い浮かんだ。

生い茂った木々の間から、木漏れ日が届く。ごつごつした岩が右側に見える。水しぶきが、時々視界に入る。その時何を考えていたかが全く思い出せない。映像だけが自分の目の前に浮かび上がるのだ。

きっと、目は“見る”ということだけに、脳は神様の名前を”唱える”ことだけに、身体は水の冷たさに“耐える”ことだけに集中していたのかもしれない。滝行を通して「何も考えない時間」を持てたような気がした。

全力で向き合わないといけない瞬間が来た時、人はあれこれ考えないのだろうなぁと思う。今やっていること、目の前で起こっていることだけがすべてで、この先を不安に思うことも、やらなきゃよかったと後悔することもない。ただ「今に集中」して、それを無意識に、「やりきる」ことに全力を尽くす。

その時に見えているものはきっと、偏見や思い込みのない、そのままの景色なのかもしれない。


今、この瞬間に集中することって、こういうことなのかもなぁと、滝行が終わった後のサッパリとした頭で感じたのでした。1年に1回くらいは通いたくなります。

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