見出し画像

選んだものがすべてリアル

大学4年の誕生日に買った指輪をずっとつけている。右手の中指。薬指はなんだか残しておきたくて、中指にぴったり合う、少し高めの指輪を買った。当時、1か月後に行く短期留学を頑張るため、何かお守りになるものが欲しいと思ったのだ。

もう10年近くずっとつけている指輪なので、付け忘れて出かけてしまった時はなんだかソワソワ落ち着かない。服を一部着忘れてしまったような、ハンカチを家に置いてきてしまったような不安がおしよせる。なんでもない単なる指輪のはずなのだけど、買った時の意気込みや、毎日つけてた安心感から、自分を守ってくれているような特別な指輪に思えてならないのだ。

そんなことを考えたのは、南直哉和尚の本を読んでから。仏像の"リアル"について書かれたものだ。

「仏像もそうです。人はただの木や石に礼拝したり祈願したりはしません。それをする人にはまず、そうしたくなる、あるいはそうせざるを得ない想いがあったに違いなく、その思いの中で木や石は仏としてリアルに現前してくるのです」

リアルとは、打ち消しがたい虚構だと直哉和尚は言う。木彫りの像を仏像だと思って拝めば、それはあなたの前で仏像になる。何をどうとらえるかは、何をどうとらえたいかによる。信じたものはリアルになるのだ。

私が指輪をつけていた時、「同じ指輪を前持ってたことがある」と言う人に出会った。当時の彼女とペアリングとして買ったから、もうつけていないし無くしてしまったという。私がお守りにしている指輪は彼にとって過去の恋の思い出で、どちらもリアルで、一方からするとどちらも虚構のように見える。結局、何を現実にしたいか、何を見て生きていきたいかは、自分で決められることなのかもしれない。

私たちはちゃんと選べる。なりたい方を向いて、信じたいものを信じればいい。それは自分次第で、しっかりリアルになるのだから。


去年の毎日note


最後までありがとうございます!いただいたサポートは、元気がない時のご褒美代にします。