心を鍛えすぎ症候群
英語ができるようになるには、脳の中に英語を処理する専門の場所を作る必要があります。それはどうやって作るかというと、その場所にたくさん血流を流すことでできます。
どうやって血流を流すかというと、英語の刺激という負荷を与えます。脳のこの場所を使う必要があるよと認識させることで、そこに神経回路ができあがっていくのです。英語専用の回路ができあがるまでは、英語の処理に大きなエネルギーを使うのですがいったんできあがると、ほとんどエネルギーを使わずに処理できるようになります。
これって筋肉の発達も同じ。テニスをする人はテニスに必要な場所に筋肉が、ダンスをする人はダンスで使う場所の筋肉が発達していきます。筋肉が発達すると、最初はたいへんだった動きも簡単にできるようになります。
筋肉と脳がそうなら、心や意識、そしてたぶん魂だって同じなはず。
なにかの原則って面白いことに、あらゆることに共通しているから。フラクタル(自己相似性)な構造もその表れだと思うのです。
だから、同じような心の試練が来るのであれば、自分は無意識の領域でその部分の心の発達を望んでいるということになります。そこに負荷をかけて処理するための回路ができれば、そのことをもう試練だとは感じなくなる。そうしたらその試練は卒業。
でもなんだか私たちって試練好きというか、ストイックに鍛えることは尊い、って無意識に価値を与えてしまう人が多い気がします。
学習において、ストレスは脳のパフォーマンスを下げるという論文があります。つまり「嫌だなあ」「つらいなあ」って思うながらの勉強より、「楽しい」「好き」という気分で学習する方が定着するそうです。
筋肉にしても、好きなスポーツであったり、心地いい範囲での負荷はいいけれど、無理な負荷は故障につながります。
同じように、心への負荷もかけすぎはよくない。いつまでも自分に負荷をかけなくていい。人の分まで背負わなくていい。
はたから見るとなんでひとり相撲して苦しんでるの?みたいなことも、本人は真剣に負荷と取り組んでいるつもりな場合は多々あります。
でも、なんでも背負って、背負えない自分を責めたり無価値感を感じたりして、心をいじめなくていい。この試練はもう十分やりました。負荷は返します。私は鍛えた筋力で楽に次へ行きます、でいいのです。
鍛えていないとサボっているようで責められそうで逆に負荷に執着しちゃうという現象、負荷が自分を現しているように思ってしまう。
でももうそれ、手放しちゃっていいやつです。もう十分に鍛えてきたから。
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