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私にとっての大切な日(お姑さんのこと)

おはようございます!!

ずっと書きたかったお姑さんの事、書かせていただきます。長いので、お時間のある時に😊

2017年5月16日

3ヶ月半の入院生活にピリオドを打って、お姑さんは家へ帰ることになった。

体の衰えは、コミュニケーションをとることも困難になってきて、少し前から殆ど会話は出来なくなっていた。

前日から帰っていた次女に一緒に来てもらって、病院に行くと、ベッドの周りに何人ものナースさんたちがおられ、私達は処置が終わるまで、別室で待つように言われた

お姑さんに

「おばあちゃん、これから帰るから、迎えに来たわ、ナッツも一緒に来てくれた、あっちで待ってるわ」

と言い、次女は

「おばあちゃん、おはよう」

と声をかけてから、病室を出た。

10時に退院と聞いていたのに、まだ身の回りのものを片付けられていない

後少しで10時になるので、次女と待っていた私は気になって病室に行くと、民間救急車の隊員さんが、迎えに来られ、ナースさんがあたふたしておられて、もう何も聞かず、私と次女は、ナースさんの後ろを通って、ベッドの周りのものを急いでカバンに詰め込んだ。

お姑さんは移動用のベッドに移され、救急隊員の人が、一緒に来てくださいと言われるけれど、来た途端に別室で待たされ、なんの説明もなく、全ての物を片付けられていなかったので、次女に救急車に乗って先に行くように告げ、私はナースさんの説明を聞きに行った。

そして、そのナースさんに見送られて、病院の外に出た

その時のナースさんの顔は、なんとも言い難い、悲しいような申し訳ないような顔をしておられた。

私は、見送ってくださった事とこれまでお世話になった事に対して、深い感謝の気持ちでお礼を言った。

その反面、お姑さんの退院に際して、点滴を外す意外に何の処置が必要だったのか?何か手違いでもあったのか、やけに時間がかかっていたし、わずか数分で済む説明にわざわざ別室に行く必要があったのか?

そんな疑問を持ちながらも、車に荷物を運び、病院を後にした。

家に着くと、お姑さんは、レンタルの介護ベッドに移動され、救急隊員の人たちは帰ろうとしていた。

お姑さんは無言で目を閉じていた。

「おばあちゃん、帰ってきたなー、明日は仕事に行くけど、ヘルパーさんが来てくれるし、ご飯は作っておいとくさかい、食べさせてもらえるで」

救急隊員の人は帰られ、程なくして訪問介護士さんが来られた。

お姑さんに話しかけ、様子を見て、移動で疲れた様子だと言われた。そして、私にとても遠慮がちに、

「遠方の方がおられたら、明日にでも来ていただくように言ってください」と。

それはもう長くないことを告げてくださっていたのだ。


病院にいる時、退院しても私は仕事に行くってお姑さんに言った

ヘルパーさんに来てもらうからと言ったら、お姑さんは、嫌だと言った。

夫はもちろん働いているけれど、家に借金がある事はお姑さんもよくわかっている、だから私が仕事を辞めるわけにはいかない、そんな事はわかっている筈なのに、嫌だと言うのだ。

人付き合いの苦手な人だから、仕方がないけれど、それはわがままだと思ったから、無理や・・・と言ってその日は帰った。

翌日病室に行ったら、お姑さんが
「昨日はごめんな、仕事行って」と言ってくれた。私は泣けた、勝気なお姑さんが、私に初めてゴメンと言ったから。

退院の日が決まったと、ある日、ナースさんから聞いた時、それを私からお姑さんに言うから、誰も言わないで欲しいと思っていたのに、あろう事か、担当医の口から直接お姑さんに告げられたのだ。お姑さんは、元気がなく、また熱が出て、退院の日は延びた。私にはわかっていた。家に帰れば昼間はいつも1人で、こんなに不自由になった身体で、1人で過ごす寂しさと不安を考えたら、帰りたくないと思っていたに違いない、でも、担当医はそんなお姑さんの気持ちを分からず、退院と言ったら喜ぶだろうと思っていたのだろう。お姑さんは、担当医を全く信用していなかったし、その頃は、ナースさんにさえ不信感を持っていたのだから。

お姑さんの病気は、突発性血小板減少性紫斑病と言う難病だった
ステロイドで治療して、血小板の数が問題ない程度まで増えたら通院となるだけで、完治する事はないらしい。お姑さんが担当医に不信感を持ったのは、良くなるどころか、身体がだんだん動かなくなってきて、微熱が続き、良くなる気がしなかったからではないかと思う。

最初は、外泊もしていたし、外出で美容室に行ったり、買い物に行ったりも出来ていた。なのに、外泊すると、その支度をするのに疲れたり、同室の人にお土産を買わなければとか、その度に仕事の合間をぬって、送迎と付き添いをしている私に対する気兼ねもあったのだろう、外泊は止めると言った。
美容室に連れて行った後のこと、
「自分の頭があんなに重いと思わんかった」と言っていた。首を支える力もなくなってきたのだろう。入院中に筋肉がなくなり、歩けなくなると困るので、リハビリは毎日あったけれど、熱があったりするとお休みになり、その回数も減っていた。

入院して1ヶ月も経たないある日、ナースさんに「リハビリパンツを買ってきてくださいドラッグにありますから」と言われた。パンツは何枚かある筈だけど、そんな種類のパンツがいるのね・・・と、ドラッグストアで聞いてみたら、なんと、紙おむつの事だったからびっくりした。そして同時に悲しくなった。
「あの、プライドの高いお姑さんが、紙おむつだって!!」と。
それからは、坂道を転げ落ちるように衰えていった。

「昨日な、私の周りに看護婦さんがたくさんいて、みんなでお寿司を食べてて、私には一つもくれんの」
とか、くるはずのない親戚のおじさんがきたと言う
「ヤスが来てな、あそこの嫁さん刑務所に入っとるらしい」
と。また
「ほら、そこにウサギがいる」
などとおかしな事を言うようになり、その頃にはもう車椅子でしか動けなくなっていた。
入院してからアマゾンで買った4本足の杖を嬉しそうに隣のベッドの人に見せていたらしいけれど、使ったのはわずかな間だった。

夫はなぜか、一度も病院には行かなかったし、退院の時も仕事を休まなかった。お姑さんは行くたびに良くなるどころか、微熱が続き、私が帰るときは玄関まで送ってくれていたのがエレベーターのところまでになり、もうベッドから出られなくなり、辛うじて会話が出来る程度になってきた。実の母の事なのに、全部私に任せっきりだし、会話もなくなり、顔を見るのも辛くなってきたから、夫に
「おばあちゃん、全然良くならんし、私もう
行くの嫌になってきた、」
と言った
「ほんなら行かんかったらええやろ!」
と言われ
「なんちゅう事言うん!!あたしが行かんかったら、誰が毎日行くん!!自分がもし、入院して、誰も来てくれんかったら嫌やと思うから行くんやで!!」
と泣きながら叫んで、そうしたら、不思議と次の瞬間、スッと気持ちが楽になって、翌日はなにくわぬ顔をして、お姑さんの部屋に行った。

その頃の私は早朝6時出勤で10時半から11時頃までホテルの朝食作りに行き、午後は3時から7時過ぎまで老人ホームのご飯作りに行っていたので、病院には2箇所の勤務の間に行っていた。朝、夫のご飯を作り、送り出してすぐに出勤、帰ってから家事、病院、一日置きに筋トレのために通っていた「カーブス」もやめなかった。病院は用事があっても無くても、必ず毎日行ったし、電話で呼び出され2回、3回と行く日もあった。

お姑さんには、私の夫の以外に娘が1人、埼玉に嫁いでいた。その娘(妹)は看護師で管理職だったので、滅多に来られなかったけれど、毎月来て、一泊して帰って行き、2回目の時には彼女の2人の息子も一緒に来てくれて、お姑さんはとても嬉しそうに、車椅子を押して散歩に連れて行ってくれた、などと話していた。

妹が電話をしてきて「みーちゃんは?ってお母さんが言うけど、今日はこられるん?」と聞く。私は妹が来てくれているのに、私が行かなくても、彼女は看護師なんだし、至れり尽くせりの介護が出来るはず、親子水入らずで積もる話もあるだろうと、そう思っていたから行かなかった。

でも、お姑さんが本当に頼りにしていたの
私だけだったのだ

衰えて行く身体、微熱が続く日々、治療に疑問を持っていてもそれを説明してくれる人もいない

私は子供が4人いて、長女は嫁いでいた。あとの3人は一人暮らしで、それぞれが休みの日におばあちゃんのお見舞いに来てくれた。家にいる頃は滅多に寄り付きもしない長男でさえ、何度も来てくれた。長女はおばあちゃんにパジャマを買い、長男はテレビカードを買ってくれたりして、私はそのときは仕事の事が多く一緒に病院に行くことはなかったから、後で嬉しそうなお姑さんの話を聞かされた。子供達と一番長い時間一緒に過ごしていたあの子たちの大好きなおばあちゃんのお見舞いに行くことは彼らの当然の果たすべき役割りというもの。

退院と言われたのが4月の終わり頃の事、でも病状が安定せずその日は伸びていた。ケアマネージャーさんが退院後の介護について聞いて下さった時、
「よく自宅介護を決意されましたね」と言われた、それはお姑さんが一番望んでいたことだったから。老人ホームに入れられた友達が可哀そうだと泣いていた姿や、親戚のおばさんの入っていた介護療養型医療施設にお見舞いに行った時のおばさんの姿、自分が行っても誰かわかってもらえないほど、痴呆が進んでいて、寝たきりで、傍目には意志があるのかさえもわからない姿を哀れに思っていたことなどを私は知っている。

人は、家族とともにいる事が最も幸せなのだし、この誇り高く淋しがり屋で、気の小さなお姑さんは、他人の中では伸び伸びと暮らせないだろう。

今は、どんな方法もあるのだ。

そう決めたら全てが味方になってくれた!!

毎日ヘルパーさんは、午前と午後の2回来てもらい、訪問介護は毎日一回、かかりつけ医はお願いすれば往診に来てくださる。

介護ベッドはレンタルで退院の3日前に入れて下さった。

お姑さんは、点滴を外してほしいといつも思っていたから、点滴は退院と同時に外してもらう約束

おしっこの管はつけたままにしてもらえた、これは介護する者にとってはすごく楽だった

ヘルパーさんとケアマネージャーさんがうちに来られ、介護に必要なもの、準備物などを教えて下さった時、足を洗う桶がいるという話になり、家にある洗面器は小さくて、キッチンの洗い桶は汚れているので新しいものを買うと言った時、わざわざ買わなくても、あるもので大丈夫ですと言われ、身体を拭くタオルも新しいものを用意していたのを見られて、いいんですよ、あるもので・・・と言うようなことを言われた事の意味を後で理解した。彼らにはわかっていた・・・私だけだったのだ、介護生活が何ヶ月も続くと思っていたのは。


お姑さんの事を書いた前回の記事はこちらです




最後まで読んでいただきありがとうございます💖


よき1日を\(^o^)/ミーバーでした✨


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