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お姑さんが亡くなった日

退院の日は5月16日

お姑さんは、殆ど目を閉じていた。

たまにスプーンで水を飲ませる、何か言うけれど、わからない

しばらく座っていて、寝かしてと言うから、ベッドを倒した。

目を閉じたまま何か言うけれど、よくわからない。

久しぶりの我が家で、点滴もなく、ゆっくり休めたのだろうか・・・



翌日5月17日

「おばあちゃん、おはよう」

と声をかけ、口のケア、顔拭きをする。

仕事は休みが取れたので、19日までは家にいられる。


朝ごはんは、おかゆと、マグロの刺身を形がないドロドロに潰したものを次女が食べさせてくれた。

入院中よく、

「造りが食べたいなー」

と言っていたけれど、それは止められていたから、叶わなかった。

家に帰ったらすぐに食べさせようと用意していたのに、半分も食べられない。

口のケアをして、またベッドを倒すとずっと寝ていた。

9時にヘルパーさんが来られ、おむつ交換と手浴をしてくださった。

そのあと、新聞を見せたり、お茶を飲ませたりしていたが、次女が仕事に行くので、お姑さんを1人残して駅まで送った。

お昼ご飯は、おかゆ、味噌汁、鯖の味噌煮

これもわずかしか食べられない。

訪問看護の方が来られ、血圧、熱など測って下さるが、血圧は計りづらかったようだ

夕方、またヘルパーさんが来られ、清拭して、ご飯を食べさせて下さった。

夜になり、口のケアをして、おやすみと言って電気を消す。


この日は、手足は暖かく、呼びかけると目を開けていたが、看護師さんは、もう長くない・・・と言われた。


5月18日

おはよう

と言うと目を開けた。口のケア、お茶、顔拭き

息がハアッ、ハアッって言う感じになり、

ご飯は食べられそうにない。

看護師さんに電話したら、

13:30に伺います

とのこと。

9時にヘルパーさんが来られ、シャンプーしてくださり、気持ちよかっただろう、何日ぶりかわからないくらいだったから。

11時過ぎに妹からラインビデオ通話で呼び掛けられ、目をあける。

口を湿らせるけれど、口は開かない。

お昼ご飯も無理。

次男が来て、声をかけると目をあける。

次男はしばらくいて、仕事に行ってしまった。

看護士さん来られ、血圧を測られるが、測れない、微熱あり

妹が帰って来て、呼吸が変わって来たと言う。

夜、また看護士さんが来られ、終末期、後期と言われ、その準備のセットを持参されていた。

尿量が減って、脱水が起こっている、無尿に近い

老衰で自然に過ごせているから、本人は楽ですと言ってくださった。

あと1.2日かもしれません・・・

でも入院中より状態はいいと言われた。

妹は自分の母親のベッドのそばに寝たけれど、

その夜、寝られたのかどうかはわからない。




翌朝19日は、声をかけても目も開かない

8時頃、診療所の先生が来られた。

昨夜のうちに看護士さんが連絡をしておいて下さったらしい。

心音、肺音、綺麗で、呼吸が落ち着いています

昇降状態ですね

と言われた。

この時間が私たちにとってのお姑さんからの最初のプレゼントだった。

その時には妹と、娘たちも居てくれたので、夫は現場に行くと言い、私は実家の月次祭に行く事ができたのだ。

お昼に私が帰ってくると、お姑さんは変わらぬ状態で寝ていた。

娘2人と妹はエプロンを縫うために生地を買いに行った。

穏やかにベッドで寝ているお姑さんの側で、妹はエプロンを縫い、娘たちは楽しそうに話をしたり、かわるがわるおばあちゃんの様子を見たりして、まるで時間が止まったような穏やかな時を過ごしていた。

そして、夕方長男が帰って来て、寝ているお姑さんのベッドの側で、みんなでご飯を食べ始めた。

しばらくしたら夫が帰って来て、食卓に座った。

食事が終わった長男がお姑さんのベッドの足元に座っていて、トイレから帰って来た次女が、ふと、お姑さんを見たら、息をしていないと気づいた。

「お母さん!おばあちゃん息止まった!」

みんなは急いでベッドのそばに行く

看護師をしている妹が息を確かめていて、それはもう戻ることはなかった。

「おばあちゃんありがとう」

口々に言い、顔を撫で、身体ををさする

みんな静かに泣いていた。

私はすぐに訪問看護士さんに電話をした。

程なくして、先生が来られ、死亡診断をされた。

そこからは私たちだけの手で、お姑さんを見送る準備をした。

妹がなれた手つきで全部の処置をしてくれ、次女が化粧をした。

「みーちゃん、何着せるん?」

と妹が言うから、私は母の日にあげた黒地の相良刺繍の着物を出した。

それは、その頃まだ生きていた長男のお嫁さんと三人で、着物の展示会に行った時、お姑さんがすごく気に入った着物があり、

「これを着て棺桶に入りたいわ」

と言ったから、後日こっそり買っておいて、次の母の日にプレゼントしたもの

私の人生で一番高い買い物だった。

その着物に一度も袖を通すことなく逝ってしまったけれど、こうしてお気に入りの着物を着せてあげられることがとても嬉しかった。

全ての準備が整い

お姑さんは霊柩車に乗せられ、運ばれて行った。


涙は出たけれど、悲しくはなかった。お姑さんは待っていた、みんなが帰ってくるのを、いつも、待っていたのだ。山奥の生まれ故郷に住んでいたあの日も、家を建て引っ越したその家でも、事情があり家を手放し、4年ほど過ごしたあの家でも、今のこの家でもずっと、家族の帰りを待つ人だった。そして、その日ももう待つことはない最後の日に、一番心配だった息子が帰るのを見届けてから亡くなった。翌日は土曜日で、全員の都合の一番いい日を選んでいたのだ。

自然に、静かに、美しく、その生を終えたお姑さんの姿はとても神々しく見えた。

みんなが見ているそばで、もう充分、幸せだったと、穏やかに、愛するものたちだけの柔らかなときの中で、そのともしびは消えていった。

本を読むのが好きな人だった

「病院で死ぬと言うこと」

と言う本を読んでいて、私もそれを読んだから、お姑さんの中で、家で最後を迎えるのは理想だったに違いない。

多くの人が病院や介護施設で亡くなるらしいけれど、

やっぱり、家族が見守る中で、住みなれた家で、自然にその身体をお返ししたい。

人は自分の望んだ世界を生きることができます。

あなたの決めたようにその最期の日を迎えることができるのです。


お姑さんは自分が選んだようにその最後を引き寄せた。

私たちに穏やかな春の1日の思い出を残し

日にちを選び

私たちが仲良く暮らせるように、入院中に一人ひとりに言葉を告げて


この素晴らしい臨終の姿は私たち家族の心に大きな、ただの思い出とは違う何かを与えてくれたのだ


おかあさんありがとう


お姑さん入院中のことを書いた記事も良かったらよんでね😊



最後までよんでいただきありがとうございます😊

よき1日を💕






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