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個展“遙拝” ステートメント

注)このnoteは、2023年10月7日〜13日に開催された個展“遙拝”の会場で配布していた文章に写真を加え、再編集したものです。

・本展のタイトル「遙拝」について〜富士山信仰の歴史

噴火の降灰によって木の葉がボロボロになった –––『続日本紀』781年
昼夜雷鳴が轟き、灰が雨のように降った –––『日本紀略』800年

8世紀末から200年の間、富士山は噴火を繰り返す活火山であった。たびたび噴火する富士山に、人々は怒れる神の姿を重ねた。864年の大噴火で、人々は富士山を浅間大神(あさまのおおかみ)と呼ぶようになる。噴火するごとに山に対する畏怖の念は強まり、祈祷のために祀堂(しどう)がつくられ、鎮火の祈りの儀式へと人々を駆り立てた。みな富士山を畏れ敬い、山そのものを神として祀った。
その時に主流だったのは、遠くから富士山を仰ぎ見る“遙拝(ようはい)”という信仰の形である。富士山の麓から、また、遠くは江戸の町から、人々は富士山を遠く望み、その美しくも荘厳な姿に神の姿を重ねた。
富士山が活動の休止期に入ると、日本古来の山岳信仰と密教・道教が合わさった「修験道」による活動が活発になり、信仰の方法は遙拝から“登拝(とはい)”という形に変化していった。

①富士山本宮浅間大社(世界文化遺産)

平安初期より別格の扱いを受けた、全国各地に1,300社ある浅間神社の総本宮。富士山を浅間大神(あさまのおおかみ)として祀っている、富士山信仰の中心とも言える神社。徳川家康から手厚い保護を受け、富士山8号目以上をご神体として管理している。
富士山の活動当時、現地からの報告を受けた朝廷が富士山へ畏怖の念を抱き、噴火するたびにこの神社に奉幣使(ほうへいし…供物をおさめるために神社へ参向する人)を派遣。無位の神様だった浅間神は、最重要の神社として駿河国では唯一の「名神大社」に異例の大出世を果たした。富士山という山が、過去に類を見ないほどにに人々に畏れられていたことがわかる。

②山宮浅間神社(世界文化遺産)

富士山本宮浅間大社の前身であり、静岡県内最古の浅間神社。本殿にあたる場所に建物がなく、富士山を望む遙拝所を設けるという独特な形態。富士山を神として拝むことに特化した神社である。噴火(=怒り)を鎮めるために山を遙拝していた古代の富士山信仰の形が、ほぼ完全な形で残されている。
808年、征夷大将軍である坂上多村麿が御霊を山宮から大宮(富士山本宮浅間大社)に移した。

・私と富士山と神さま

私が生まれ育ったのは、静岡県富士宮市山宮という場所です。富士宮市は市域内の標高差が3,741mあり、日本一。富士宮市自体が富士山の一部とも言えます。
1990年に生まれて2009年に上京するまで、私の生活は富士山とともにありました。小さい頃から一番の心配は、「もしも富士山が噴火したらどうしよう」でした。東海大地震と富士山、もちろんどちらも怖かったのですが、近くにどんと鎮座する富士山の脅威はものすごいものでした。火砕流や溶岩で、自分や家族が死んでしまう。降灰で首都圏まで大変なことになる。「噴火したらどうなるの」と先生や周りの大人に聞いては、「その時はその時だよ」という言葉に絶望していました。

実家にて。父・弟と私

上京して15年。富士山の存在は当たり前のものではなくなりました。実家に帰るたびに、その大きさ、変わらぬ荘厳さに圧倒されます。東京にいても、高い建物の上から富士山が見えると、眼を凝らして一生懸命見てしまったりして。上京する前では考えられないことでした。
実家から離れて気づいたのは、私の制作の動機となっている“大きくて、強くて、優しくて、美しいもの”って、富士山なんじゃないか、ということ。私は幸せな幼少期の象徴として、富士山のような存在を描きたいのかもしれない。
大きな神さまがそばにいてほしいという願いは、幼少期から富士山とともに生きてきたから生まれたのではないかと考えるようになりました。

2022年の暮れ頃から、富士山について、信仰や芸術の源泉としての歴史を辿ってきました。
すると、ずっとずっと昔の人も私と同じように、その圧倒的な自然の力を畏れてきたことがわかりました。小さい頃からよく行っていた神社(富士山本宮浅間大社)が、富士山信仰の中心地だったなんて。近所の神社(山宮浅間神社)が、富士山の噴火を鎮めるための祈りを捧げる最初の場所だったなんて。近すぎてきちんと参拝したことなんてなかったけれど、改めて行ってみました。以下は、取材の記録です。


【富士山本宮浅間大社】
実家から車で10分。富士宮駅の近くにある、富士山信仰の中心地。敷地もかなり広く、多くの人が公園のように利用している。毎年11月に大きなお祭りがあり、祖父母と一緒に遊びに行くのがとても楽しみだった(お気に入りの屋台は、らくがきせんべいとフルーツのこな)
今回取材に行ったのは、8月5日。富士山の湧水が流れる神田川のきれいで冷たい水に足でもつけて楽しもうか…と思っていたが、なんだかとても騒がしい。なんらかの神事が行われている音がしているし、屋台も出ている。なんと、たまたま“富士山御神火(ごじんか)まつり”の日だった。御神火まつりには馴染みがないので詳細を調べてみると、なんとなんと、「富士山の恵みに感謝するとともに、偉大な力を鎮めるため」に始まった祭りだそうだ。図らずも、富士山への畏怖の念が形になった祭りに遭遇してしまった。
目の前を練り歩く8基の神輿に灯された火は、火山の象徴。富士山の山頂(富士山本宮浅間大社奥宮)で採火された御神火である。派手で熱く、命がほとばしるような掛け声や太鼓の音に、祈りの力を感じずにはいられない。

祭りのクライマックスは、神田川に入って激しい水流を遡ることで御神火を清める「神田川昇り」。冷たい湧水の水飛沫、天までもうもうと立ち昇る湯気。炎に照らされ真っ赤になった人々を、汗まみれで見る。蝉の声と、力の限りの太鼓の音。みんな同じ。富士山のふもとで暮らし、富士山を畏れてきた人たちだ。


【山宮浅間神社】
実家から車で5分。富士宮市の中心地とは言い難いが、世界遺産「富士山」の構成遺産となったことで、盛り上がっている一帯。神社のそばにはこぢんまりとしたきれいな案内所が。世界遺産めぐりについての大量のパンフレットをもらい、いざ鳥居をくぐる。

背の高い木に囲まれているので、夏なのにとても涼しい。しんとした境内をまっすぐ歩いていき、急な階段を昇ると…通常なら本殿があるはずの場所に、建物がない。だが、木々がうやうやしく道を譲るように、少しだけ開けた場所がある。この日は富士山は雲に隠れていたが、すぐにわかった。ここが遙拝所だ。ここから見える富士山は、明らかに“神さま”然としているに違いない。

ここが遙拝所。右側に富士山が見えるはず。

昔からここで、富士山を神さまとして仰いでいたんだ。私と同じように畏れ、憧れて、それが脈々と受け継がれてきた。昔の人々のシンプルで純粋な信仰の形が、いまもこうして残っていることがうれしかった。



富士山信仰の歴史を調査したことで、今まで「自分と富士山(幼少期)」で完結していた感覚が「人々と富士山(8世紀末〜現在)」まで拡がりました。私が感じてきた富士山への憧れ、畏れ、それは過去から現在まで共通する普遍的な感覚だったのです。「遙拝」ということばを知った時、生まれてからいままで私がしてきたことそのものだと思いました。そして、いま私が、富士山からもらった安心感や美意識をもとに祈るような気持ちで絵を描いている行為も「遙拝」に違いないのです。

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