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英語が好きとは??

英語に関連するような内容を、ここに書いていたりそれに関する事業を始めたりしていると知られるとたまに「英語が好きなんだね!」というような事を言われる。

大学時代もこのままではいけないと思い、試行錯誤して使える英語を身につけたいと時間をとっていた。その時もそういうふうに言う人はいた。

けれど、私には英語が好きだから勉強して、そして使えるようになりたいとか、英語が好きだから続けられるみたいな感覚はよく分からない。

もちろん、特定の言語の音や響きが好きで理解したいとかそういう感覚を持つのは人様々だろうから否定もしないけれど……。

それ言い出したら、好きが先に来ないと何も知りたくなくなり吸収したくなくなるという話になる。

例をあげよう。

先人が歩んできた道筋を記してあるかも分からない歴史という分野が嫌いになる人がいる。
覚える事が多くて苦痛とかたまに聞く。

けど、本来なら歴史が今を作り今が歴史になると考えれば興味は湧くはずだ。そこから学び利口に振る舞えば同じ過ちを防げるはずだ。

科学的な内容が嫌いになる人がいる。理由は、公式が難しくて良く分からなかったとかそんな事だ。けど、私たちの日常のあらゆる所に科学を基にした技術が使われ先人が発見した法則が使われていて実際そんな事で自然現象が説明できたりもする。

非常にシンプルに身の回りの出来事を掴める可能性も上がるはずだ。

好き嫌いとか特に関係なく、私達に関係しているもの。歴史も科学も…。

それと同じで英語も、世界中で様々な国の人達が使う普及した言語であるという事実。

知っていて使いこなせると、ハンデなくコミュニケーションが取れ、尚且つ価値観を広げる道具である。

英語が好きだから頑張って勉強するっていうことには、この意味合いは含まれているんだろうか…

好き嫌いではかる事自体が、なんかしっくりこない。変な感覚がする。

だって、もしも英語が好きじゃない人は、英語が使えるようにならない。そして、何かのきっかけで嫌いになれば使えるようにならないを意味するからだ。

これがどれほどおかしな事なのか考えた事はあるんだろうか?と頭をよぎってしまう。

日本で産まれ日本で育った日本人が、日本語の好き嫌いを感じてから使えるようになってきただろうか?

自分以外の外界と関わり、そこに溢れている音から何らかの情報を取ろうとして学んできた。それが日本語だっただけじゃないだろうか?

たまたまアメリカに産まれれば英語だっただろうし、中国だったら中国語だったんだろうし、ヨーロッパのどこかで産まれたらそこの言語だったんだろう…

好き嫌いとか考えないだろうと思う。

英語が好きなんだね?

とか言われると頭がはてなだらけになってしまう。

私はそんな事は考えたこともない。ただ使えるようになりたかっただけだから…

知りたい事があっただけだから。

英語で発信される情報は日本語で発信される情報より明らかに多い。知りたい事があれば出来た方が圧倒的に有利だし、知りたいと思った。

海外に行ってみた。英語が使えた事で、いろんな価値観を持つ人と会話できた。そして、いろんなバックグランドを持つ人の感覚や考え方を知る事ができそれを相互交換できた。それは楽しい事のひとつ。

英語が好きとかそういう話じゃない。

もしも世界全体が日本語が主流で、日本語が便利に感じる人類ばかりだったら使えるようになろうとかきっと思わなかった。そういう事。

芸術も音楽も英語ができた方が圧倒的に楽しみが増える。選択史が多い事はワクワクの源。

言葉が持つ文脈や文化的背景を知ることにも繋がり、それもかなり素晴らしいことに思う。

価値観とは、自分の周りや自分だけが正しい訳ではない。非常に複雑なレイヤーで形成されているという事が分かってくる。

それを手に入れる1つの方法が、英語を使えるということ。
日本人はこの素晴らしいきっかけを、歪んだ教育で手放してしまっていると思う。

嫌いになったら英語が勉強できないなんて、すごい変なことだ。

好き嫌いで見るなんてとても浅いことではないだろうか…

じゃ、いっときの気分や感情で嫌いになったらお別れだよね。だからずっと継続できない人が多いんだよねとも思う。その理由はなぜか??

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