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言葉の精度の話。

私はここnoteに英語関連の事について書いている。

 noteを書く事は、自分の頭の整理にもなっている良い時間でもある。そして、読んでくれた人が英語を使うときのヒントやコミュニケーションについて考えてくれたらとの想いもある。

英語というけれど、日本語と同じ言語という括りでは同じもの。そこで、日本人は言葉の精度についてどのように考える人が多いのかと少し頭に浮かんだ。

まあ多くの家庭では、人の失礼にならないように言葉を選びなさいと教える親が多いだろう。私も幼少期からそう教えられてきた。わりかし、他の家庭に比べ厳しいのではないかと感じた事は多い。

だから、人と関わる時は相手にどう思われるか気にばかりしていた時代もあった。不快に感じさせないかとか嫌われないかとかいちいち考え言葉を選んでいたんだ。

だから、いつもニコニコして相手の顔を見て余計な事を言わないようにあまり喋らない時代もあった。常にどう思われるか気にしている環境が私の中であったから、、

ただ私は少しづつ言葉の精度について拘る事を諦めたんだ。そしてかなりの部分を手放した。

それはどういう事かここで整理しておきたい。

人は誰しも違い全く同じ人生を歩んできた人などいない。そういう意味では孤独。人によって好きな言葉や嫌いな言葉は違っている。そして、どう感じるかだって微妙に違っている。

言葉だけに耳を傾けよう。すると、同じ言葉でもその人の歩んできた人生から作られた主観により良く思う人と悪く思う人がいて当然という話になる。

だから似たような人であれば心地よく感じるし、違えば嫌に感じる。このギャップなんて永遠に埋められない。

だからこそ、非言語コミュニケーションだって大事となる。どんな環境で状況で何をしているか相手の身になって考えてみる。そして感じ取ってみるのは必要だ。

私が今まで色々な人間に会って感じたことは、当たり障りない言葉や優しい言葉をかけてくれた人が果たして行動まで一致しているかという疑問。

社会というものは厄介なものだ。自分に正直に喋る人ばかりだろうか?という疑問がここで残る。

周りにどう思われるか考えていたとしたら、その言葉の真意は何処にあるだろう。言葉からではなく、行間を読まねばならない。とても難しい、そして見誤る人もいる。

私はそう考えるから、他人は100%は理解できないものと諦めている。そして、自分が相手に理解されないという事実がある事も許容している。

だからこそ、何か言う時は言葉に理由を持たせたいと考えている。なぜその言葉を発するかの目的を明確にする事だ。

そうすれば当然、正直である事が重要と思う。そして自分の言いたい事を選んで言う。相手に嫌われるかどうかは考えないで発言しようと決めた。

何を言っても嫌いになる人はいるし必ず分かってくれる人もいる。そう割り切る事で楽になる。それがわたしの結論。

その言葉をどうして言うのだろうか。それは本当に言いたい事だろうか。想いを乗せて調整する事が大事といえる。

ただ人は完璧ではない。誰でも何を言ったって迷惑をかけてしまう可能性はある限り互いに寛容になる必要がある。

ここで、このnoteのテーマである英語に話を戻そう。英語は世界で使われる言語である。世界には、日本の中以上に様々な文化や考え方そして習慣が溢れている。もっともっと細分化されている。

自分がこういう事を言えば相手がこう思うだろうなんて考え方は、日本の中にいるよりも英語で話す人々の間では通用しにくい。

それを何となく、空気から読みこんでばかりいては黙る事を選んでしまう。読みが当たらない事が多ければそうなってしまう。

こうし始めれば途端に、アウトプットが減り会話力は上がらない。悪い事ばかりだろう。

相手の様子伺いで主体性を言葉に持たせていない事は、母国語以外の言語を学ぶ際でもかなり邪魔になる。

相手を思いやる事は必要だ。言葉の精度を完全に諦めては害もある。言葉は時にナイフにもなるからだ。

ただ自分の言いたい事や気持ちを我慢して相手にどう思われるかばかり考えて発言する事は主体性を欠いてしまう。

そして、自分がどうしてその言葉を言いたいかという部分に嘘が出てきてしまう。

何が伝わるだろうか。言葉の精度なんてあったもんじゃないと考えてみる事だって重要と思っている。

英語使いになる為のヒントいろいろ

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