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「生きる」ことの美しさについて

MEGANです。先日Twitterで素敵なツイートに出会い、感慨深かったのでぜひ皆様にも気持ちをお裾分けしたく共有します。


何を美しいと感じ、どんな時に日々の達成感を感じますか?


育児に疲れ、仕事を終えられずに1日が過ぎ、自分以外のもののペースに巻き込まれ、日々が流れるように終わってしまっている日々。友人に「育休復帰したら冷凍食品に頼らないといけなくて」なんて伝えている私は、どんな顔して1日を過ごしているんだろう。

自分が美しいものに出会えた瞬間。感動した瞬間。忘れられない出来事や、自分を変えた人・モノ・出来事。私はそんな自分の人生の宝物を、近頃じっくり味わえていないと思った。味わえるのは、育児が終わってからかな、なんて思っていた。

しかし、土井先生のおっしゃることはどうやらそうではなさそうだ。

『食べ終われば、後片付けをして掃除する。(中略)この毎日の繰り返しが「人間の暮らし」であり、その意味は、やがてそれぞれ美しいかたちとなって、家族である人間のそれぞれに現れてくるものと信じます。』

私の解釈だと。1日の生きる繰り返しこそがそもそも美しい。人間の暮らしこそが美しい。そんな目から鱗な言葉である。


1日を消化して過ごしている、と1日を生きることが美しいの違い

若ければ若いほど、鮮烈な出会いや印象的な出来事は自分の価値観を創る礎として認識しやすいだろう。そうやって人生は創られるのだと思うだろう。私もそう思っていた。けれど、どうやらそれだけではない。

1日を健やかに過ごせるように、私は朝風呂から始める。朝風呂で1時間程度整ったら、家族が起きてくる前に朝ごはんの用意(パンをトースターに入れバナナとブルーベリーのスムージーを作る)、娘の保育園の支度、昨日の夜回らなかった後片付けをする。
あっという間に2時間が経つ頃、シャキッとするため服を着て、メイクをする。
(私は服を着るのが苦手で、メイクも面倒だと思っている。)

自分の用意が終わる頃、登園し、自分の仕事が始まる。1日のタスクを明確に決めていても、途中にどんどん差し込まれるタスクや会議に追われ、仕事が終わる試しはない。そんな中、お昼を食べ、17時半を過ぎた頃になって焦ってお迎えと晩御飯の用意をする。

寝ない娘を寝てほしい時間に寝かしつけるのは至難の業で、やはり予定の1時間後になってしまう。時計は21時を過ぎている。

私たちの日常は、こうやって過ぎている。このどこに美しさがあるのだろう。達成感のないまま、何を目標に生きるのだろう。私はこんなふうに思って生きていたのだ。

しかし、土井先生はこの毎日の暮らしが美しいのだと、いうのである。


日々生きているという美しさ


私は、特段苦しくなければ、自分に負荷をかけて人一倍大変な想いをしなければ、自分は「楽をしている」と思うようだった。
19歳の時、半年で20キロを落としたことがあった。毎日絶食し、運動や風呂に入っては倒れたりする日々を送っていた。
当時の自分はがむしゃらに生きていた。しかし、今の私は当時の自分が想像もできないような幸せに包まれているとも感じる。

愛する娘と、人生のパートナーに出会い、アラサーになっても人生というゲームが鬼ゲー過ぎて詰んでいる。ポケモンセンターが実際にあるなら、私はこの家族と過ごせるだけで、心のHPが回復するのだ。こんな満たされる気持ちになるんて、当時の私はどうしたら気づくだろう?

土井先生はここでこのように言う。

『一生懸命したことは、一番純粋なことです。そして純粋であることは、最も美しく尊いことです。

それは必ず子どもたちの心に強く残るものだと信じています。

親が一生懸命生活していることが、教育の本質であり、

いずれ子どもたちは経験を更に重ねて、大人になればきっとわかるようになります。』

私が日々生きていることは、私だけで完結しているのではない。そう、誰かに影響を与えている、私の生き方こそが美しいのだ。目から鱗だった。そして、私は静かに泣くのだった。


新年を迎える前に残した日記でしたが、つい新年に持ち越してしまいました。次はついに抱負を綴りたいと思います。



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