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時計屋の遺言

「時計の針には幻想が棲んでいる。11時20分は夜空を踊るバレリーナ、8時20分は親子が分けたアイスケーキ、10時40分は眠り続ける胎児、3時15分は世界の傷の治癒を祈る両手、4時50分は満月に梯子をかける星座屋、7時10分は背伸びをする小さな画家の少年。どうだい、言われればそんな風に見えるだろう」

年老いた時計屋は長い物語を聞かせるようにそう言った。アンティーク調の家具が揃う狭い部屋の中、チクタクと時計の針が世界の呼吸を刻んでいる。

「ものをよく見れば、そこには命が住んでいることが分かるんだ」

例えば鉄格子の間にも空気があるだろう──これは酸素と窒素、二酸化炭素と希望のアパルトメントなんだよ、と時計を直すためのカルテを書いている。
全ての物品や死人や無機質なものに命を見出すその瞳に、僕は子供ながらにどこか神様のような雰囲気を感じていたものだった。

もう亡くなってしまったが、時計屋はそんなような人だった。




数年後。
僕は彼の遺志を継ぎ、時計屋ではなく物語屋として働いている。
客足は多くないが、モノクロや無機質や声を出さないものなどに命があると思える力が手に入ったことが、僕は何より嬉しかった。

この力を得るためには手術を受けた。

芸術鑑賞という名前の、もうこの時代には存在しない感性の矯正だ。昔には絵や音楽や文学などを嗜む文化があったようだが、どこまでも合理性が追求された世界には必要ないと判断された。美術館と博物館は地の果てに追いやられたという。芸術鑑賞は違法であるため正式な免許を持った医者は手術してくれないから、僕は繁華街の闇医者に頼んで手術を施してもらった。思わぬ大金を払った。しばらくはコーンキューブしか食べられない生活だ。

「天高く大きく伸びた木は龍だよ。龍が空を飛んでいるんだ。枝は龍の脚、葉は龍の鱗。想像してごらん、植物の前世は神獣だったんだ」

僕は物語屋を、同じく違法に芸術を摂取している子供たちに教えている。
親に捨てられたストリートチルドレンだ。こう言ってしまうのは悪いがこの子たちに教えるのが一番社会的に害がない。僕にとってではなく子供たちにとって、だ。普通の家庭でさえまともに教育を受けさせてもらえない世の中だ。これぐらいの悪さをしたって神様は赦してくれるだろう。

「植物の前世が神獣?」

今日物語を聞かせている子供は良くも悪くも素直。国の機関の教育を何も受けてこなかっただけあって知識や物の見方を何でも吸収する。今だって僕がプレゼントしたノートに必死に話を書き留めて聞いてくれている。
お代はもちろん取らない。
いわば僕の仕事はボランティアだ。
稼ぎ口は──ここでは言うことができないが、まあ暮らしに困らない程度には稼いでいる。

「そう。全ての生き物はどんな善人だろうと生きているだけで罪を犯している。けれど生まれる前は何の罪もない、まっさらな架空上の幻想的な生き物だったんだ」
「……それは、この世界が汚れてるってこと?」
「違うよ。むしろ美しすぎて歪んでいるぐらいだ。そこに生き物たちが馴染めないだけ。生き物はね、基本的には自分の意思とは裏腹に生まれ落ちてしまった可哀想な命なんだよ。だからこそ、その悲劇的な部分に微かな希望があるんだ」

僕はそれを見出す仕事をしている、君もまた同じになれるんだよ──僕はそう言って笑った。
紅茶を啜り、物語の言葉を書き留めた本をペラリとめくる。
少年はぱちくりと何を言われているか分からないような表情をしていた。子供には確かに理解が難しいかもしれない。けれどいつか僕のように理解ができるはずだ。





……信じ続けて教え続けていれば、僕のように手術を受けない状態のまま、まっさらな身体のまま、後悔もないまま、理解できるはずだ。

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