めがねになりたい

今後の人生をどう過ごすかかれこれ5年ほど悩んでいる。
29歳を目前にして、一度これまでの人生を整理してみる。四半期のまとめ(120歳まで生きるのかな)

◇高校
中学まで並みの賢さでジーニアスパーフェクトヒューマンと思っていたけど急に国語と英語しかできなくなる。
目標達成のための努力ができないのはこの頃から始まっていたと思う。
最初は国立志すもセンター科目多すぎて早々に諦め、公立であれば科目少ないとたかをくくるも計画を立てて確実に実行する勉強方法など実現したこともなく、計画性と時間管理及び自己管理という能力の習得もこの頃から取り組むことができていたら人生は変わっていたと思う。
最終的に同校からの卒業生が多数輩出される中の上な私立へ進学。
一貫して興味を持っていたのは国際関係のこと。
・英語ができた(科目としての。普通の日本人の中では。)
・姉も英語ができた。カナダに短期留学もした。(思えば姉と高校も大学も一緒。前例踏襲主義。)
・姉が国際意識持つようになったのは祖父がサモアに住んでいて、サモア人の血の流れる親戚との交流が子供のときからあったから(私の祖父であり親戚でもある。)
・高2のとき初めての海外でタイに行って人生が変わった(一緒に行った日本人高校生・タイで会った友達が最高だった)
・母が福祉の仕事をしているので小学生のときから福祉関係に興味があったこと、前述家族の影響で国際関係にも興味があったこと、第二の故郷になったタイが発展途上国であったことなどから途上国開発に興味を持つようになったこと
・自分は何不自由なく幸せに暮らしているけど生まれた環境が違うだけで、「私が思う幸せな状態」にない人がいることに違和感を覚えたこと
・幸せの不平等みたいなのを解消するためになにかしたいと思ったこと(あとになり価値観の押し付けと気づきアイデンティティー見失う)
などが理由だったかなぁと思う。自分で思ってたよりもバックグラウンドあったわ。(ホッ)
進学先候補は
神戸市外大 国際関係学科⇒余裕で落ちる
関西学院大学 国際学部⇒興味持つも、尊敬する大先輩の話聞いてより関心に合う学部があると知る
関西学院大学 総合政策学部 国際政策学科⇒進学。最高の友達に出会う。正直これだけで価値あった。永遠の後悔はもっと能動的に勉強すればよかったということ。(消えることのない思い)

◇大学
最高の友達とキリスト教学を受けチャペルアワーを楽しむ。(関西学院はキリスト教主義教育)
まさかのこの始まり。「チャペル」を名乗る私含む迷惑な3人組がいますが、あとの2人も知らんやろうけどかなりキリスト教に興味がある。宗教全体かな。宗教を原因に争いや協調が起きることがあまりにも多くて。
行事や習慣でしか宗教(仏教)を感じない自分には馴染のない、信条を通して見る世界はどんなものなのかと興味がつきない。信条があるから強くもなるし、時に過ちを犯すし、はたまた思っているより敬虔な信者の割合は少ないのかも。というのは今後人との対話を通じて自分なりの見解を探していきたい所存。
キリスト教話はまだ続き、単純にキリスト教をモチーフにした絵画とか建築物を見るのが好き。システィーナ礼拝堂の壁画はこれまでの人生で息をのむ光景トップ5に食い込む。
聖書も読み物として好き。記憶にはまったく残らないけど。
聖書にも美術品にも、同じ信条を持つ人を増やそうとした何世紀も前の人からの熱い情熱を感じる。
説かれていることは今の時代にも通ずる解釈が多いし。今後の関心はユダヤとイスラム。
過去からの対立が、国家とか民族としての意識に深く傷跡を残して、なにもなかったことにはならないまま現代の問題にも繋がってるということもひしひしと感じる。
今抱えている問題は、目の前にあるなにかを解決しただけでは済まないこともあるということ。
だから歴史を知ることって大事だと思うようになった20代後半。歴史の話になってるわ。
歴史の中で対立の種になってきたことは、宗教・政治・土地・経済・環境などなど、正に総合政策学で取り扱うテーマばかり。
過去と現代を知り、世界で起こっている問題に関心を持ち、身近なところから行動していく。
そんな『Think Globally, Act Locally』を地でいく教えを受け、自分の感じる課題に対して自分の足で動く学生が多く、国際機関で長年務めた経験のある教授のゼミで勉強できる素晴らしい環境の中にいさせてもらっても、社会人になってActしつづけるのは難しかった。というのがこれまでの私で、やっぱりなにか行動を起こしたいというのがこれからの私であります。

話は入学当初に戻り、私費留学した姉の経験から、交換留学生になるべく指導を受けた私は早々に留学説明会に参加する。(これだけは偉かった。人に言われないとできへんけど。)
そこでなんと私が応募するタイミングで、タイの協定校が新しく追加されたことを知る。
交換留学生になるためには、行き先によって多くの関門がある。主にTOEFLのスコアと学業成績。
英語圏はやはり人気なのでスコアと成績のハードルが高い。
タイの大学は成績要件なく、英語レベルはたまたま入学時の試験で取れたスコアで足りたため、応募。
人気ないので交換留学決定。なんという出来レース。
ここで英語圏目指さなかったことに後悔もあるけど、タイ留学が人生に及ぼした影響も多大なものだったので、よしとする。

そしてタイ漬けの人生。高校生のときからお客さんとして行っていたタイ料理屋の店長さんが、「大学生になったらアルバイトしにきてね」と言ってくださっていたことを真に受け、仲間に入れてもらう。これも人生の転機。
(中学生のときには憧れの先輩に、同じ高校入ったらバスケ部のマネージャーしてな!と言われたことを真に受け同じ高校に入り、バスケ部のマネージャーをする。素直な性格が垣間見える。)
アルバイトでタイ語を使い始めたけど、大学ではタイ語の授業なんてない。
しかもうちの学部はグローバルに力を入れている割には少々特殊で、第二言語習得が必須ではなく、任意。
その分英語に力を入れなさいということで、週4英語クラスが最低2年・長い人は3年続くが、驚くほど英語はしゃべれるようにならない。これも後悔。もっと頑張ればできたのかな。
そんな中、留学先の大学はもちろん授業は英語。なのでタイ語いらないといえばいらないけど、せっかく行くならやりたかったので、留学前3ヶ月くらいアルバイト先の紹介でタイ語学校に通う。
週1くらい。基礎の基礎。それでもやっといてよかったと思う。

◇タイ留学
留学先は国際大学で、タイ人は金持ち(MBA修了の経営者とかCAになる人とかがたぶん多い)、留学生も多いけど留学生でタイ語しゃべれる人ほとんどいなかった。白人は遊びに来てた。白人同士つるんでた。出会った中国人はもれなく変わってた(私の思うスタンダードやコモンセンスの枠にはまらなかった。これは実体験なので偏見じゃない。)。韓国人と日本人は仲良くしてた。パキスタン人はくすりやってた。
留学経験は思ってたよりもほろ苦かったし、自分の言語力の低さ思い知った。(けどその後もそんな努力してない)
異国で家族と離れて暮らす経験が最大のインパクトと言ったらなにしに行ったんやってなるけど、それだけ目的なく行ってしまったのが私の留学で、だからこそ得るものも次に繋がるものも少なかったというのが世知辛いですが正直な見解。なにかを学びに行くのではなくて、行くことが学びになると思ってたおばかさんだった。
人間力は少々上がった気もする。学内寮は2人部屋が基本で、典型的なタイ人ガールと時にぶつかり、時に分かち合い、時にエアコン温度設定で対立し、怒りに任せて部屋を飛び出し、共用ランドリーで洗った洗濯物を放置して日本の友達にスカイプで愚痴を聞いてもらうこと数時間、洗濯物を取りに戻ると全部ではなく一部が盗まれていて学校の制服買い直し、時に夜中に共に鍋をつつき、常に同じ部屋で寝て起きて、貴重な共同生活だったなぁ。

その前に、留学のタイミングに合わせてタイに入るも、歴史に残る大洪水が起こった直後。学校始まるの無期限延期。高校時代からコミュニケーション取り続けていた友達がいて本当に本当に本当によかった。バンコクから離れた故郷で2~3週間お世話になる。入った大学にも、たまたま高校生のときに参加した文化交流プログラムで出会った友達が2人いて、その友達の友達がまた友達になったり。こんな偶然あるんかな。とにかくご縁に恵まれた人生。

更にその前に、今の人生に直結する出会いがあった。
きっかけは、アルバイト先×タイ留学→これがタイに関わる今の就職に繋がる。

留学前、「輝く瞳に会いに行こう」という本のポスターがアルバイト先に貼られているのを見て、本を買いたいと店長さんに申し出たところ、常連さんの著書ということを知り、サイン入りの本をいただいた上、来店いただいた際に紹介を受けてお話しする機会を得た。
ばりばり仕事をして生きてきた後、ふとしたきっかけにより奉仕の道に目覚め、タイに入り込んで識字率向上に貢献し、恵まれない環境にある方が自分の力で未来を切り拓く支援をされているNPOの代表さん。
主な活動は2つ。

・日本語学科のある北タイの高校でのボランティア日本語教師(タイ人に日本語指導)
・少数山岳民族の子供寮の運営支援(少数民族にタイ語識字教育)

年に1回、高校での日本文化体験イベントと少数民族寮での炊き出しを企画し、ボランティア数名で活動されていた。
ちょうどそのイベントが、私の留学期間中にあることを知ったので参加させてもらうことになった。
それから3年続けて同じイベントに参加させてもらい、社会人になってからも日本国内での講演会に参加させていだいたり、支援者の方々の集まりでもたくさんのご縁があったり、今の自分では考えられないようなすごい世界にいさせてもらったな。
先生(NPO代表さん)が現地に入って活動を始められたのは66歳。今年77歳を迎えられ、身体の不調を抱えられながらも、精力的に活動を継続されている。
私はというとこの数年なにもお手伝いできていないので、勇気が出ればまたなにか活動させていただきたい所存。善は急げ。

先生にいただいた最上のご縁は就職先。
もう本当~~~~~になぜ新卒就活しなかったのか。なぜ働くことを見据えて勉強しなかったのか。これは人生最大の後悔ですが、だから今がある(で済ますのもよくないけど)。
私の勤める会社はタイにグループ会社があり、私が学生としてボランティアに参加していた頃はちょうど現地法人立ち上げ時期。先生と会社代表さんにご縁があり、会社もイベントに協賛し、現地でも社員の方が数名参加されていた(現社長含む)。
そんなこんなで、あんなどんなで、日本本社でもタイからの研修生を受け入れる予定があったので、その際の対応役として私を雇っていただいたんだそうな。スーパーコネ入社社員として現在に至る。
現実には、もちろん入社後特別扱いされるはずはない。なにもできない学生が「タイ」を接点として雇っていただき、今自分にできることを勉強して働いて、お役に立つことが先生への恩返しのひとつであります。

◇仕事
とはいえ日本企業。新入社員の能力やバックグラウンド、最適配置なんて関係ない。
なんといっても事務採用。よく考えずに入った自分もばかだが、5年目で総合職転換したかな。事務から総合職転換は1例目。女性総合職は確か2例目。そんな男社会で制度的にも遅れた会社。
私の実績を踏まえて、その後何名もの新卒入社女性社員が総合職転換したことは誇り。
これからも未来の女性社員の道を切り拓くパイオニアでありたい。
他の会社では当たり前なことも、一から制度を作っていく必要がある。その現実を受け入れられない期間も長かったけど、今は自分が制度を創っていける立場にあるので、見方は170度変わった。(残り10度とは)
ないものを自分で考えて創るから価値がある。そう思えるようになったのは大きな成長でもあり、ようやくスタートラインでもある。
やっとここまで書いてきて、ここからが本題なのに疲労感が半端ない。

事務として、勤怠管理と社会保険手続き・受付庶務等々こなし、ほんまに事務っぽいところと、自分だからできる業務もそのうちちらほら。
頭を使って新しい提案をする仕事はそれほどなく。求められている様子もなく。本当は自分からやりたいことを提案すればよかったのですが。その頃はそんな気概もなく。売上にも事業活動にも直接関わらないコストセンターの中にある自分の価値を問い続ける。新卒に総務は、早いよ。(結論)
「このままでいいのか?」を考え続ける3年目。私はこれを「25歳の呪い」と記憶している。
大きな節目に感じた。世間一般の社会人に、市場価値でも人間力(その頃は預金が着眼点)でも大幅に遅れているようで焦っていた。恋人はいた。いたけど何歳で結婚・出産するのかというライフプランが見えてなくて、個人のキャリアとパートナーとのライフプランと、なにも定まらずもやもやし続ける。(結局3年後にその人と結婚する)
以下、私の紆余曲折。

・25歳 春夏
転職エージェントを利用してみる。若年層にありがちな、「環境を変えてみたい願望」。今となっては恥ずかしい。スキルとしての強みも身についてないのに、新しく価値を見出せることもないものだから、今と同じ仕事を高待遇で望んでみる。なんの結果も出してないから、決まるはずもないのに。エージェントさんも困ったことでしょう。この頃は新卒入社の恩恵に本当に気付いてなかった。終身雇用を前提として一社の中でプロパー社員を育てていくという古い習慣の消えきらない日本の労働環境で、在籍しているだけである程度給与が上がっていく年功序列の給与制度の面影。能力の上がらない人ほど、ぬるま湯に浸かっておくほうが得だと考えるようになるのかもしれないけど、なにかあって外の環境に飛び込まないといけなくなったときに自分の市場価値の低さに気付いても遅い。カルチャーも作法も人間関係も一からになっても、どんな変化にも適応して能力を発揮できる人材になることが、この不安定な世の中を生き抜く上での最大のリスクヘッジではないかと徐々に気付き始める。
今では、そんな高い能力を身に付けようと社員が自助努力すること、そして会社がその成果を適正に評価して待遇と報酬を与えることで、社員のモチベーションを保ち続けること。そんなお互いの姿勢が理想だと思う今日この頃。
そのうえ、働き方は「会社員」「雇われの身」でなくてもいいんだと捉えはじめたのも大きなパラダイム転換。
自営業でも、フリーランスでも、社員でもパートでも派遣でも、働き方の選択は自由。なにに重きを置くか。自分が社会に貢献するため、どんな仕事をしたいか、それを実現するためにどんな働き方ができるのか、適しているのか。そういうことだと思う。
最大の問題は自分がなにに取り組みたいのか定まらず覚悟が決まらず打ち込めていないこと。一生こんな人生なのか?こちらは後述。
戻りまして、25歳の転職活動は結局一社も内定を得ないまま終了する。面接に進んだ組織人事コンサルティング会社は、鬼の圧迫面接ながらも感触は悪くなかったが、「営業」「テレアポ」なところを思い知らされ、怯み、辞退。今では、やってみればよかったと思う。

・25歳 冬
国際交流基金がやっている日本語パートナーズ派遣事業に応募する。海外に関わる自分に戻りたかったのだと思う。タイの学校に派遣され、日本語教育をサポートしつつ日本文化を伝える役割。恩師の力添えもあり、かなり行く気満々だったが、面接で補欠合格からの不採用。尋常じゃない挫折。
思えばこの頃人間関係に疲れていて、面接での対人能力に関する質問、気持ちのまま素直に答えすぎて不正解の模範解答をした気がする。そのせいかどうかは知らんが、結果は結果。戦略思考不足。
若かったからキャリア中断することに抵抗なかったし、やりたいことに飛び込んでみて次なにか見つかればいいや的な楽観思考はまだまだ存命。なにも見つからずに26歳なったら大変なのにな。

・26歳 夏まで
今の仕事をなにかに繋げようとして、高めの通信教育教材を買って社労士の勉強。ここでも計画的に勉強できない怠け癖発揮し、余裕で落ちる。言わずもがな勉強を継続していない。

・27歳 冬
世界一の食品メーカーの日本法人受ける。なぜ面接進めたのか謎ですが、募集はコールセンタースタッフだったんですもの。大企業すべり込めるかと思うやん。(中小企業コンプレックスの塊)そしたら面接行って集団で説明受けて、実はマーケティングの部署なんですってなって、「???」てなってる間に、面接、なにも意味のある回答できない、一人自滅するも優しく付き合ってくれる面接官。もちろん落ちたが、企業イメージだけで受けてはいけない。面接官がわざわざ自社のイメージの良さを覆そうとする異常事態。普通に準備間違えたし場違いな経験。簡単そうな仕事内容で募集かけて、書いてない部署に回すっていう求人広告のからくりみたいなのも学びました。
もう一社神戸の食品専門商社受けるも、完全な事務募集でミスマッチ。
どうやらこの頃の私は神戸に戻りたかったようです。なにをするか?に加えてどこに住むか?が重要に感じてた。結婚の話が出そうな時期なのに、躍起になって自分の足元を固めようとしていた模様。
リモートワークが格段に進む時代がすぐそこにきてるのにね。リモートで働ける仕事能力が私にあれば、世界中めぐりながら仕事したいと思う、昨今。これも目標。
それにかこつけて、地方創生も関心分野。中国のスマートシティ参考にして勉強したい。

・27歳 夏
神戸観光局応募。インバウンド消費に関心があったのと、神戸愛の賜物。一次面接はかなり感触よかったが、二次面接たぶん生理前で、不正解の模範解答の二の舞。単に準備不足もあった。能力不足も。未経験転職で持つべきマインドも、取り組み姿勢も、欠けている実務経験を補うための行動も今なら分かる気がするのに、もったいない機会損失した。しかし翌年世界的に感染症が蔓延し、インバウンド消費が冷え込むと誰が予想しただろうか。すべて結果論。

じたばたの形跡はこんなものだったように思う。小さく動いて、結果は何も出てない。考えた過程はよかったこともあるかもしれないけど、状況は変えられないまま時間だけ流れた模様。

ここからはやってきた仕事とそれによって関心持った分野とこれからやりたいこと。

・技能実習制度・特定技能と移民政策
入社2年目くらいからタイの技能実習生受け入れに関わる。最初は生活面のお世話や職場に馴染むお手伝いが中心だったけど、監理団体の窓口やったり関連資料揃えたりする中で運用上の是正の指摘もあり、制度の趣旨や背景を調べながら対応していく中で気付いたら会社の誰よりも外国人雇用に関して詳しくなる。
移民受入に消極的でありながら、労働力不足を補うため単純労働者受入に舵を切った政策、特定技能制度の成立によって、約10年後には単純労働者である永住権取得者が発生する可能性もある。
移民との共生の問題をどうしていくのか、外国人が過ごしやすい環境をつくるっていうところでは、短期滞在のインバウンド消費喚起にも繋がると思うけど、どうなのか、情報追いたいところ。ヨーロッパの移民政策失敗例から学ぶところ多いと思う。
それから、日本は外国人労働者にとって魅力的な国であり続けられるのかということ。技能実習制度に派遣元の国が賛同する目的は、出稼ぎ送金による外貨を取得するため。それならどこの国でもいいように思うし、相対的に日本の賃金は下がってきていることも理由の一つとして、日本の産業のレベルの低下は否めない。
稼ぐ力の低下は、国力の低下のように感じる。日本に生きる一応若者として、国の将来を憂う。

・働きがいと自ら考える労働者
稼ぐ力の低下が必ずしも悪いことなのかは不明。日本の経済力が上がったのも、戦後つくったら売れるという時代背景と人口増加があってこそ。人口減が続く見込みの中、マーケットとしての価値も下がっていく。それが悪いことなのか。外国人労働者を入れて生産量を保つだけが正解なのか。
仕事って価値を生むことだ。一人一人が自分の頭で価値のある仕事はなにか考えて行動して、働きがいと生きがいを持って、生み出す価値を維持し続けられたら、いいんじゃないのかなぁ。ものすごくざっくりしているけど。
それが持続可能な社会な気がするのですが。生きがいはもちろん働きがいのみによって生み出されるものじゃないけど。
生きがいを感じられる生活があるからこそ働きがいがあるんやと思うし。
資本主義が続いて久しいので、仕事して対価を得ることは避けられないけど、生活の為だけの仕事じゃなくて、社会のためにどう貢献するかをそれぞれの長所を活かして実行すること。それだけじゃだめなんでしょうか。
と言いつつも、日本国民としてはあらゆる指標で上位にいたいと思うのは国家とナショナリズム的なお話になるのでしょうかな。
だから国の力をあげるための人材になりたいと思うし、そう志す人が多くあってほしいと思う。
そんな危機感をきっかけに、学生の頃に描いていた「発展途上国の支援」みたいなのって完全な絵空事であったと思う。自分の国やばいのに人の国応援してる場合じゃないってなった。現にタイの優秀な同年代に、全然自分の能力は劣ってる。国家単位で見るんじゃなく、困ってる人を自分のしたい/できる分野で応援する。これはやっていきたい。
それからビジネスのパートナーになっていくこと。これから成長していく国を、日本のビジネスのマーケットとして開拓していくこと。これが、他のアジアの国に比べても遅れているんやと思う。
サモアの話を聞くと、小国で自国内マーケットが小さいので隣国とビジネスすることが当然の前提になっていて、サモア語もあるけど義務教育から英語で勉強をしてたり、環境に適応してる。急にサモア。
そんな風に、産業やマーケット構造の変化に対応していけるんだろうか。
めっちゃ関係ないけどエストニアのような電子政府を日本で実現することにも期待。

・働きがい
またしても働きがい。
人事として新卒・中途採用をやっていて、広報の仕事を根本から考えるときにものすごい熱量をかけた。
まずは会社の情報を伝えること。
そのために学生はどんな情報を求めてるのか考えること。
その答えを、裸のままじゃなくて、「受け取ってほしい形」に整えて提供すること。
創業記念企画で社史つくったりウェブサイト丸々作り変えるときのコンセプト練ったりする中で、経営者の思い聞いて言葉にして今後の会社の方向性示すこととか、だからこんな人材がほしいのだとか、人の知らない仕事を「やってみたい」って思ってもらえるくらい魅力的に話すのとか、その辺の言語化スキルはぼちぼち身についてきたと思うし、相手の要望に親身に寄り添う・それを会社側にも求職者側にも行うことで入社後の定着を上げることもできてきたと思う。
まずこれは自分の働きがい。人事の仕事に求められることはできる能力つけられつつあると思う。今では教育制度構築とその前の評価基準を定めるところに取り組んでいて、自走する社員が成長して働きがいを感じながらよりレベルの高い仕事をすることで会社に貢献できればいいと思っている。それから就業規則の見直しもやっていて、自分とこれからの女性が働きやすいような制度にしていきたいとも思っている。そして定着率を上げて自走する社員が(以下略)
たぶん、今勤めている会社にとって価値のあることはしていけると思う。
でも、自分が求めている価値はそれなんだろうか?が今の大きな問いで、他にしたいこともあるように思うし、他の分野での自分の能力も開発したい。そこに具体性を持たせて、自分の価値観を主軸にした職業観を醸成したい。自分が何を大事にしていて、どんな能力を持って価値を提供していきたいか考え続け、目標のために学び続け、実行していくこと。それが人生だと思う。
と思って仕事探しをしている人は多いのだろうか?キャリアコンサルティングの資格勉強したいけど、需要あるのだろうか。
求職者と接していると、やりたいことが定まっている人と定まってない人でやはり分かれていて、定まっている人のことは、自分とは違うので尊敬している。私の夫がそういう人で、高校から工業一筋、仕事も自分の興味ある分野でやっていて、それは趣味で興味ある分野とも共通してる。一貫して、ぶれてなくて、他の仕事をしたいのかな?なんて考える余地もない。こういう人はどうやって出来上がるのか大きな疑問。
定まっている定まってないの割合は不明。
私が接するときは、定まっている人→提供する情報も定まる
定まっていない人→ヒアリングしながら提供する情報を選択していく
だから必然的に後者の方に時間も労力もかかるし、自分も後者なので同じ視界で物事を見ているように思う。
自分は後者でジタバタしているから、ちょっとでもそんな方のお手伝いできればと思っている。
それって、需要あるだろうか?やる価値あるだろうか?が疑問で煮え切っていないところ。

これに限らず、私の性格として、多様性を受け入れて取り入れるのが好きだと思う。
海外旅行が好きな所以はそういうところだと思う。
それが、考え方なのか、習慣なのか、まだ分からないけど、誰かが困りごと抱えてる時に違う見方をするっていうことを何らかの形で提供することが仕事に繋がるなら、いいなぁと思う。昔から持ってた夢が形になる気がする。
多様な見聞×専門性×言語化 で個人にパラダイムシフト起こす的な
興味ない人に何言っても抜けていくだけっていうのは実体験から身に染みて分かっている。こんだけ情報が溢れてるのに、お母さんから何度も注意されたことも、自分で必要と気づくまでは取り入れられへんかったけど
興味持ったり疑問持った瞬間すっと入ってくることってある。それと同時に、聞き流してたことも腹に落ちることもあるから、興味ない状態から言い続けてるのもいいかもしれない。
モノをつくるのは苦手やから、形のないようであるもので、なんか価値創出できんかな。

最近視力が著しく低下して、初めて眼鏡をつくった。
つけてみたら、ぼやけてた視界がものすごくクリアになって、新しい世界が広がったような感じがした。
ものごとの見方を変えるって、心理的な眼鏡をかけるようなもんだと思う。
そんな眼鏡に、私はなりたい。
以上!

その他
この年までばかみたい世情に疎くて、本当に何も知らないので生きづらいから思い当たるところから必死に勉強中
まずずっと考えてた資産運用を始めた
会社とか業界の勉強になるし、財務の勉強にもなる
あとTwitterでいけいけの社会人フォローしまくってこんな人生もあるんやなと思い、いいところだけ取り入れている
財務・英語・ITの能力を上げたいと思っている
憧れの女性の先輩2人の発信する情報をストーカーのように追ってモチベーションにしている
お一方からは会社に貢献して自分のスキルもつけるには数字を出すことだっていうのを強烈に植えつけられた
もうお一方は働き方に関する考えが似ているように思われ、ご自身で実現されてるのも素晴らしいし、デンマーク行きたい
そんなこんな
ジタバタしている29歳目前の私の記録
できない自分の認識とたくさんの後悔と今後の希望に溢れた状態である
これからの人生がよくなるように、思考の整理でした

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