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なんか上手いこと言いたいという魂胆

 お笑いに何の意味があるのだろう。
 昔から「いっちょおもろいことしたろう」精神で生きてきた私は、とりあえず小ボケをし、言葉を連想ゲーム方式で繋いでみたり、奇をてらった喩えを用いて揶揄してみたり…と隙を見つければ直ぐにでも笑わせてやろうという努力に執心してきた。
 ADHD持ち特有の気が散ってしまう現象、これは言い換えれば多様なシナプス結合であるが、それにより繰り出される言葉はけっこうな頻度で場をしらけさせるものだ。
 こっちが頭の中で考えている連想ゲームも、受け手には伝わっていない。
 往々にしてあることである。
 人がみんな、年がら年中マジカルバナナをやっていると思っている私のほうに非があるのは明白である。

 この手の伝わりづらいボケは失敗すると、なんか変なこと言ってるもさい奴となり、場の空気がどんなに活発であっても一転して凋落してしまう。
 ポジティブに言い換えれば、場の人間の脳内をクエスチョンマークで支配してしまう権能持ちということかもしれない。
 それでいうと、私は周囲からとりあえずバット振るやつとして認知されているようだ。
 数打ちゃあたる戦法で世渡りをしてきたピエロ、お笑い賞レースにもし私が登場するとなれば、二つ名は是非これにしていただきたい。

 しかし、どんなことがあっても私はいつでもめげずに小ボケと揶揄を繰り返す、学ばない男である。
 どうしてこんな気概がふつふつと沸いてくるのだろうか?
 なぜ私は面白いことを言うことに憑りつかれているのだろうか?
 そもそも、お笑いというのは人間の幸福度増長以外に意味は無いだろう。
 まあ誤解を恐れずに言えば、エンタメなど全て遺伝子を残すという生き物としての基準から見れば、価値など無いに等しいのであるが。
 なら、どうして人間は生存に必要のないエンタメを発達させてきたのだろうか。

 以上のことより、「数打ちゃあたる戦法で世渡りをしてきたピエロ」である私はお笑いの価値、その持つ意味について考えたいと思い立ったのである。
 物事になんでも意味を持たせようとするのは、近代の子供の抱える悪い特徴とされている。
 特段Z世代と括るまでもなく、近代以降多くの人間は、社会で生きるために自分には何ができるのか、他の人とは何が違うのかという基準ばかりに終始しているのである。
 それもこれも、農耕が始まって以来連綿と続き、肥大化してきた競争社会の成れの果てと言える代物で、人類の輝かしい発展が産み落とした穢れた副産物である。

 しかし、私も例に漏れず、この悪しきプロパガンダを受けて育ってきたわけある。
 私は、作文で書く内容に困ったときには、とりあえず本質に立ち返ろうと思い立ち、取り上げている事柄の辞書的な意味を掲載して、それっぽいことを言ってみるという、苦し紛れの逃げの選択肢をとる生き物とされている。
 古代ギリシャの時代から行われてきた暇人の道楽である哲学。
 哲学の発端も、ものの本質的な意味に立ち返る所に端を発するのであるから、私も先人達の教えに則って、同じ道を歩もうと思う。
 大抵の場合、確かに過去の人が積み上げた功績に頼ることは、大筋として間違ってはいないが、そこに発展性は微塵もない。
 同じ道を歩むこと、それは既存体系に固執することと同義であり、保守的な思想は合理的であると同時に愚かでもあるとここに言わせていただきたい。

 能書き垂れたが、結局やることは、お笑いの歴史の深堀りである。
 まずずっと昔、人類が洞窟とかに住んでいたころ、また、それからずっと進んで狩猟採集民となり、小規模なムラで生活していたころ。
 ここにお笑いがあったのであろうか。
 それは、まあ分からない。
 日本には文献もないし文字もない。
 中国の古い文献はなんだか事実を淡々と述べている印象がある。
 少なくとも紙や、それに伴う読み書きが出来る人間が貴重だった時代は、言語を用いたお笑いは、存在していたとしても口頭のみに限られよう。
 では、時代を進めてみよう。
 エンタメという概念が日本に標準的に備わったのは、江戸時代の相撲だったり、能や狂言といった芸能の発達がよい例であろう。
 しかし、我々は知っている。日本という国家で最も読み親しまれた著作である「枕草子」「源氏物語」という存在である。
 文学作品である両者の成立と同時に、前者からは諧謔表現、即ち滑稽さが生まれており、後者からは物語性が誕生していることがわかる。
 読み書きが(上流階級ではあるものの)浸透して、資源などの余裕が生まれて直ぐにこのようなエンタメ作品が見受けられることからもわかる通り、人間は本質的にエンタメを欲していることが推測される。

 だんだんと着地点を見失ってきた本記事であるが、エンタメはなにを生み出すのだろうか、という問題について言及しなければならない。
 社会性を有した生き物であるという観点から人間を見るのであれば、意思疎通の道具としてエンタメが用いられてきた可能性はある。
 しかし、多くの場合、既に人間関係というかある一定の集団が形成されてから普通お笑いをするはずである。
 私が小ボケをするのは友人に対してだし、お笑い芸人が出演するライブやテレビ番組といったものは、テレビや劇場を介した一種のコミュニティであることは言うまでもない。
 初対面の人が歩きざまいきなり物ボケをしてきたらどうだろうか。
 私は引く。結構引く。二度目はないぞ、といったところであろうか。
それに、私たちは意思疎通をしなくても、本を読んで物語に浸ることもあれば、妄想をして自分一人の世界でのエンタメにも興じる生き物である。

 謎が、深まる結果となってしまった、お笑い。

 思うに、エンタメというのは人間が蓄えた知識の放出する場所としての側面が強いのかもしれない。
 エンタメに必要な要素は滑稽さと文脈である。
 その両方を十分に会得しているのか、人間同士が互いに知見を確かめ合う営み、それがエンタメであると私は考えた。
 要するに、同じ共同体の文脈的な背景を共有しているかを擦り合わせる作業が、エンタメと呼ばれる文化であり、それはミームや内輪ネタに端を発するそれである。
 chromeで「エンタメ 意味」と検索して一番上位に出てきた、SEO対策ばっちりな池上彰の記事に記載されていたコメントを引用しよう。
 「エンタメのない世界は人間としての"緩慢な死"」
とのことである。
 読み書きが活発になった平安時代に、瞬く間に文学が興隆したように、エンタメは人間の、他の生物にはない要素の一つに違いない。

 だから、私はボケるのをやめない。
 きっと私がボケをするとき、はみんなに楽しいと思ってほしい訳ではなかったのだろう。
 それは単に自分の知識をひけらかしたいからという不純な動機の代物である。
 きっとエンタメとは、ある種自分の意見を押し通す傲慢なプロパガンダであり、共感を他社に押し付ける利己的な文化であろう。
 でも、だからこそ、ボケようじゃないか!

 そこに、ボケの入り込む余地がある限り、俺たちの戦いはこれからだ!

 締まらない終わり方になったが、これにて本記事を閉幕の運びとしよう。
 読んでくださりありがとうございました。
 また、次回もよろしくお願いいたします。
 

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