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非現実の引用で

 先生や上司のような立場が上の人が、叱咤激励するときや、私たちのような物書きや、受けを狙った人が用いる技術である、引用。
 有名な偉人の格言をそのまま持ってきて、恣意的な解釈のレンズを通して、自分の言い分を主張するための道具にしたりする技術である、引用。

 多くの場合、それは身内のミームや世間に広く膾炙されているものが用いられる。
 それは当然で、引用するなら当然受け手にも伝わるものでないと、その言葉の文脈や背景のような、本来の言葉以上の出来事を含めて伝えるという、引用の役割を果たすことができないからである。

 しかし、それだけでは飽き足らない存在が、私である。
 引用とはもっと広く寛容に使うべきであると、そう主張したい。

 引用が相手に伝わらなくても良い、独りよがりでも良いと考える理由を説明する。
 それは、もっと言葉を言葉として味わってほしいからだ。
 そもそも、日本語のような言語というものは、単語と助詞の無限のように多くの組み合わせで起きる、有限の存在である。
 だけれど、普通、人は言語を意思疎通に用いるだけの道具だと考えているものだから、ある程度文章の言い回しはたとえ方言により語彙が違っていたとしても、規格化され統一され、教育として教えられる文法に則るのである。
 だから、人は自分で考えた言葉を文法という鋳型に溶かし込んで当てはめただけの陳腐な言葉しか発しない。
 これが勿体ない。
 もっと言葉を、日本語を楽しむべきである。

 僕は引用を定型句に近いものであると考える。
 引用に意味を持たせるのも結構である。
 しかし、それ以上に引用を普段使いして欲しい。
 文脈や言葉が発せられるまでの背景といったものの一切を無視して、背負うものがなくなった純粋な言葉の表現としての面白さに目を向けるべきなのだ。
 自分が考えもつかなかっただろう、単語と助詞の組み合わせを積極的に使っていくべきである。
 もっと言葉というのは、意味内容だけでなく、語感や単語の繋がり、そして醸し出される余韻を楽しむべきものであるのだ。
 だから、自分で考え出したありきたりな文章を書き連ねるだけでなく、先人たちが残した、おかしみのある定型句に当て嵌めることをもっとやってもいいと思うのである。

 ちなみに、本記事のタイトルも引用したものである。
これは、ヘンリー・ダーガーが書いた世界一長いとされる小説のタイトル『非現実の王国で』をもじったものである。
 なぜ引用したか、それはふと思いついた語感がいい表現がこれだったからだ。

 こんな単純で安易で一見愚かな理由で全然良いのである。
 格言なんかを無理に使って、何かメッセージ性を持たせるほうがよっぽど悪である。
 「非現実」という言葉の響きと「引用」という言葉への意味の通るような通らないような微妙な接続。
 非常に甘美。
 そして「で」で醸し出される、何かが続いていきそうな素晴らしい余韻。
 素敵である。
 もっと、言葉を言葉として楽しんでいいんだよ、そう願ってやまない私である。

 本記事はこれにて終了とさせてもらう。
 読んでいただきありがとうございました。
 次回もまたよろしくお願いいたします。

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