見出し画像

3月10日と11日

76年前のこの日、東京で10万人の命が失われた。1945年の3月10日の未明、米軍の300機のB-29爆撃機が高度2000mの低空をついて侵入する。1665トンの焼夷弾を投下し、市街地は火の海になった。巨大な炎で秒速100mを超える火災旋風が荒れ狂い、B-29は水平に飛ぶのも困難であったという。

応戦した航空機は46機、高射砲部隊の地上からの砲撃など、それでも14機のB-29が撃墜されたというが、家屋の焼失は26万戸、範囲は41km2に及び、被災者は100万人を超える。東京大空襲は圧倒的に非対称な戦争だった。

3月10日

その時のことは遠い昔の話としてもはや知る由もないのですが、当時の痕跡が残っている場所がいくつかあります。葛飾区の白鳥三丁目の青戸(白鳥)高射砲陣地跡もその内の一つ。

白鳥砲台

当時、都内だけでも20箇所以上も作られた高射砲陣地の殆どは戦後の復興の中で撤去されているのですが、高射砲を据えるために作られた頑丈なコンクリートの台座のいくつがが解体できずに住宅街の中に未だ残っています。

6番砲台

3列6基、合計18門の高射砲で構成された陣地の内、3つが露出残存、2基が地中に埋まってます。これは6番砲台の痕跡。高射砲を固定するための円形のコンクリートの台座が駐車場に残っています。

2番砲台

2番砲台の台座は半分が道路で切り取られて、残りはそのまま町工場の床の一部になっています。台座の周囲には弾薬保管用の1m角のコンクリート倉庫が3箇所あったはずですが、それは残っていません。鉄筋の代わりに竹が入っていたから簡単に壊せたそうです。

3番砲台

3番砲台の台座はアパートと住宅の敷地に跨ってます。半分はアパートの給水タンクの基礎に使われてます。もう片側は新築住宅の基礎の下敷きになってしまいました。

17版砲台

去年の春に壊された小屋の床下から出てきた17番砲台の台座。直径は4.5m、コンクリートの厚さは90cmにもなります。

マンション開発の工事で壊されるところを見ましたが、工事の監督さんは最低3日はかかると予想して専用の重機を借りてきたと言ってましたが、分厚いコンクリートの塊の中に鉄筋は殆ど入ってませんでした。76年前の戦争の記憶の解体は3時間で終わりました。

砲台と今 3

テレビのニュースでは明日で震災から10年になることを伝えています。数字で比較できるような話では全くないのですが、2011年3月11日の大震災での死者不明者は1万8426人。津波の浸水範囲は561km2、家屋の全半壊40万戸。原発事故の避難指示区域は1150km2(当時の人口8万6000人)10年を経ても未だに帰還の目処の立たない区域が380km2も残っています。これは東京23区の面積627km2の6割にも相当する広さです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?