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第2回 「露欲的」なものへの批判と考察と

日本語の形容詞の中には「露悪的」という語がある。

「欠点や嫌なところ、悪いところを殊更に露見させる様子」という意味である。

90年代のサブカルチャーは露悪的であることを一種必要条件として成立し、その中でも悪趣味系や鬼畜系と呼ばれるものは、殊更、露悪的であることを文化として昇華した(とされる)。

しかし、東京五輪の際に騒動になった所謂「小山田事件」、「コバケン事件」はこれら90年代サブカルチャーの終焉を示したものであった。即ち、これらの事件は露悪的であることが、かっこよく文化的であるとされる時代が終わったことを象徴したとみなすことができるのだ。


ビートたけしに『下世話の作法』(2011年、祥伝社黄金文庫)という隠れた名著がある。

この本はビートたけしの人生訓や流儀を書き綴った(おそらくは口述筆記であるが)もので、たけし一流の至言が多く書かれているのが特徴である。

この本の中でページを割いて何度も語られているのは、「下品」なものに対する批判である。

たけしの言うところの下品とは、己の欲望を直接的に他者に見せつけるさまを意味している。

私は、己の欲望を積極的に表す様を「露悪的」に倣って「露欲的」という語で表したいと思う。

資本主義は、人間の持つ「〜したい、を欲しい」という欲望を満たすための「〜を売る」という行為を現金化する構造でできている。

共産主義が旧ソ連や文革のころの中国のような抑制的な社会をもたらすのは、資本主義の逆説であるからに他ならない。

私は「露欲的」なものに対する言い知れない違和感を覚えている。私が共産主義者であることを先に示しておく必要があるが、これはあくまで欲望を肯定した上で、己の欲望を殊更に露見しようすることに対する違和感である。

もし大声で「セックスしたい」と叫ぶ大人を見たらどう思うだろうか?

多くの者は下品だと思うだろう。仮に子どもを連れていたらそんな者に子どもを近づけようとは思わないはずだ。

たけしが言うように「露欲的」であることは下品なのだ。

それは欲望を現金化して売ろうとする側にも言えることで、アダルトなものが店の奥でひっそりと売られているのは、それを店頭で殊に強調して下品であると言うcommon sense (共通感覚、日本語では常識と訳される)があるからだ。

むしろ、私は欲望を現金化するものにこそ「露欲的」になることに対して自制心が必要だと思う。

私は東京の街を宣伝文句を大音量で鳴らしながら走る某サイトの宣伝車があまり好きではない。それどころか、根本的なところでどうしても拒否感を覚えてしまう。

それはあまりにもカネと性というものに対してにたいして「露欲的」であるからだと思う。要するに下品だと感じてしまうのだ。

前に赤坂のインターコンチネンタルの前の通りをあの宣伝車が例の如く大音量をかき鳴らしながら走っていた。私の前にいた未就学児らしき女の子が真似をするように「○○○は高収入」と大声で叫び、母親らしき女性がそれを制するという様子を見かけた。

母親に同情するとともに、いつからこんな下品なものが街中を我が物顔で走るようになったのだろうかという感情が湧き上がってきたことを思い出す。

カネや性に対する欲望はそれ自体が下品なものではない。そして、それを映画、文学、音楽、マンガ、アニメーションという形で昇華したものに対してはカルチャーとして評価すべきだと思う。

しかし、欲望を文化的な昇華を怠った上で「露欲的」に表現した瞬間に、ただ単に下品なものに成り下がると思う。

翻って自分はどうだろうか。露欲的なものであると思われている業界に身を置いている。

だが、風俗そのものは決して下品なものではないと確信しているし、そこで働く人々も決して下品な存在ではない。寧ろ、始めた動機の如何に拘らず、人間の欲望の根本に寄り添う仕事はどんな仕事よりも文化的で崇高なものであるとも思っている。

それでも世間的には露欲的とみなされるのがこの業界だ。私はこの世界の本質がそうではないと示していくためにも露欲的な発信をしないように心がけている。実際できているかどうかは甚だ怪しい面はあると自覚はしているが、私はあくまでも上品でありたい。

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