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超利己的『死刑にいたる病』感想文。

前略

まさか冒頭10分15分そこらでタイムアウトを取らないといけないなんて、そんな映画があってたまるかい。ありました。ネットフリックスに。

榛村さんはとんでもない連続殺人犯で、身の毛もよだつような残忍な暴力を純朴な少年少女に繰り返しふるっていて、それはもう死刑にするしかないよね、っていう卑劣極まりない人間なんですよね。それはそう。その、榛村という男が如何に残忍であるかというのを冒頭でそれはそれは丁寧に描写するわけです。待ってくれ。全然そんなつもりじゃなかったんだ。許してくれ。命乞いもしたくなります。これは映画で、画面内の出来事で、フィクションなんですけどね。それはわかっている。わかっているんだけども。演出が、演出を超えて目の前で起きていることが、あまりにも最悪すぎる。あと丁寧すぎる。今からでも遅くないから撮影現場でのハートフルオフショットとか公開してくれてもいいのよ?すでに公開されていたらぜひ教えてください。安心感が増すので。

自分が生きていくためには、自己肯定感の低い真面目な青少年が自分の手で傷つくことが必要で、その生命維持活動のためには努力を惜しまないこと。生きていくのには必要なことだから、努力を惜しまないというのは間違っているか。朝起きて、顔を洗って、ごはんを食べて、というのと同じようなところに、他人をいたぶって傷つけて、みたいなことが含まれているのが、榛村さんという人間だった、ただそれだけだった。他者と折り合いをつけて生きていかなくちゃいけない今の社会では、どう転んでも存在を認められることはない。社会から排除せざるを得ない存在ということを榛村さん本人もわかっていて、踏まえてきっちり社会に適応した完璧な人間だった。冒頭でこれでもか!と残忍な人間であることを分からされたにも関わらず、よくできた人間の姿をしていて、それが何より恐ろしかった。多分全部計算づくなんだけど、ちょっと抜けていて他人に愛される姿を常に保っていた。

榛村さんは手紙をよく書く人間で、文字がハチャメチャに綺麗だった。実は手書き文字が綺麗すぎる人がちょっと苦手です。私が書く文字は可読性を高める方向にしか成長しなかったので、整った文字では全くなく、だからバランスの整った文字を見ると、自分自身の正しくなさが強調されてしまう気がしてしまう。気のせいなのだけど。綺麗な文字は社会の正しさの中にある文字のような気がする。綺麗な文字を書くあらゆる人が問答無用で苦手という意ではない、坊主憎けりゃ袈裟まで…ではなく、社会の正しさを背負っている人かも、と身構えてしまうことはある。そういう文字を榛村さんが書いているっていうのは、とても恐ろしいなあ…と今思っている。

面会室のシーンの演出が、途中で舞台芸術じみてきて興味深かった。画面の向こうには実際に起こった出来事しかないと思っていたので、そこに突如として心象風景というか、心理描写というか、そういうものが不意打ちで侵食してきて肝が冷えました。壁とガラスに阻まれたこちら側は、安全だと信じていたのに。全然安全じゃなかったね。雅也君。

映画を一時停止できる時代に生きていてよかったなあ。

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