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超利己的『再生』感想文。

前略

劇中に流れていた、「ふがいないや」と「Shangri-la」を、Spotifyのお気に入りプレイリストに入れた。これからも、時々、あの爆発的な生の奥に深く暗く漂う、死を思い出すように。そしてそこに、あの舞台に、自分の外側に、内側のどこかにひた隠しにされている死の一部分を担ってもらえるように。

はたして、音楽を聴いて、強烈な死を時々思い出すことが、死を担ってもらうことになっているのか…?文字に起こすと同時に疑問が湧いてしまったのだけれど、しかしそれが自分にとって何か救いのようなものになっていることは確からしい。「担ってもらう」のとは違う救いなのかもしれない。

『再生』は、舞台の中に生と死があって、それを3回も繰り返す作品だった。観るまで何も知らない予定だったが、公式のアナウンスがあり、集団自殺がテーマになっているらしいということだけは事前に知ることになった。最近の芸術作品は、精神や身体への負荷とかトラウマとかに配慮しようという心意気が見えて、いいね!と思う。自分は事前情報なしで、博打で演劇を見て、そこでいろんなことを新鮮に気づいたり気づけなかったり、大笑いしたり困惑したり涙が流れてしまったりするのが好きなのだけど、世の人がいっそう幸福で過ごし続けるためには、必要なことですよね。ある程度ネタバレにも寛容なので大丈夫です。

それで、舞台の目の前に座って、いよいよ『再生』が始まって、過剰という言葉には乗り切らないほど過剰に、大盛り上がりの酒盛りが繰り広げられた。ぱっと見で何の集まりなのかまるでわからない、生活圏が全く異なっているような人達が、一同に会してお酒を飲んでいた。共通するものと言えば、みんながみんな暴れ踊り狂っていることと、時々一人か二人で孤立して、虚空を見つめていることくらいで。

もちろん知っていますとも。これが集団自殺の話なんだって。注意喚起されていたんだから。なのに、手先が冷たくなって、少し震えだした。寒気がして、膝の上に載せていたリュックサックを抱え込んだ。ああ、この人たちは今から目の前で死ぬのかって、両腕を抱いて見ているしかなかった。

自ら殺すと書いて、自殺という言葉だけど、私はあれのことを、基本的には精神的殺害と思っている。死んだ人間に責任を負わせるような字面にしないでほしい。死ぬこと以外の選択肢を消してしまった環境が彼らを殺害しているんだから。目の前の人たちからは、かつて生きていたころの生活が垣間見えた。死を選ばなければならない理由が薄く透けて見える人もいた。繰り返すごとに、まだ生きていた時の気配が強くなって、どうしてこんな結末を辿ってしまったのかと思わずにはいられなかった。見てられないのに、目を離せずにはいられなかった。

死ぬために集まった人々の最期の狂喜乱舞は、エネルギッシュなようでいて、でも恐ろしくグロテスクで、何者かに操られて死んでなお踊らされる死体のようだった。暴れ回っている時の方がむしろ死んでしまっていて、ふと我に返って、ああ今から自分は死ぬのか、と思い出している時間の方が、まだ生き生きとしていたようにも思う。

あ、死を見据えることが、実は生きていることなのか?だから私は彼らの死を思い出すことに、何か救いめいたものを感じてしまっているのか。今、突然、腑に落ちた。そうか。そうかもしれない。

死と生を繰り返すごとに場内の音楽がどんどん大きくなって、「あ、音量が上がってる」と冷静に気づく自分もいたが、全身が音楽でいっぱいになって、ただ眼前の生と死とを受け止め続けることに精一杯になって、公演終了後は少し、何も考えられなくなっていた。

あの時はただ、見に来てよかったとだけ、思った。


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