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リブリヌ04/サンテミリオン村歩き#35


リブリヌの町を散策しているときにMaison Politi(65 Rue Gambetta, 33500 Libourne)という食材店を見つけた。イタリア系の食材を扱っていた。店内にイートインのコーナーが有って、試しに寄ってるとこれが中々のものだった。嫁さんは気に入ったらしい。それでディナーも此処へ寄りたいという話になった。
夕方、ホテルからMaison Politiまで歩いた。ジャン・ジャック・ルソー通りを5分ほど行って右折、ガンベッタ通りがプレジタン・デュメにぶつかるところにある。昼間予約しておいたので、スムーズに席に付けた。
「ボルドーって色々な国の料理が多くて、どれも秀逸なものが多いけど、リブリヌもそうなのね」
「ん。ボルドーは、かなり長い間タクスヘイブンだった。北方ケルト人相手に、ローマの退役軍人たちがワインを売るために作られた交易地だったからな」
「タクスヘイブンって、税金が無かったの?」
「ん。ボルドーは退役軍人たちが作った交易地だったからな。ローマの管理下になかった。売り手も買い手も、自由に集まり自由に交易できる場所だったんだよ。だから急速に発達した。最初は地中海側で自分たちが作ったワインをピレネー山脈を越えて運んでいたんだがな。そのうちボルドー側でも、退役軍人の裔たちが葡萄畑を開墾するようになってね、それが引き金になってボルドーは大きく育ったんだ。しかし前にも言ったように今のボルドー市辺りは、上流から流れてくる土砂のために泥沼状態にあった。幾つかの小高い丘の上で交易所は始められたけど、葡萄畑なんてとっも作れるような状態ではなかったんだ。だからアンフォラに詰めたワインは地中海側から運んでくるしかなかった」
「その地中海側から運んだワインと、ケルト人が北から運んできた錫を、ジロンド川の小高い丘の上で物々交換したのね」
「そうなんだ。ケルト人側からすると、ローマの商人を間に挟まないで商い出来るから、大喜びだったに違いない。ボルドー/ジロンド川の小高い丘の上にケルト人は幾つもの波止場を作ったんだ。その遺構がいまのボルドー市内に幾つも発見されている。ジロンド川に繋がる支流の岸にケルト人はストックヤードの倉庫を幾つも作ったんだ。
同じくその傍にローマの退役軍人たちも地中海から運んできたワイン/アンフォラをストックする倉庫を作った。活発な商いが有ったに違いない」
「それが、ローマには伝わらなかったの?」
「伝わったかもしれない。しかしローマから相当離れた属領で起きたことだからな、目くじらは立てなかったんだろうな」
「なるほどね」
「おかげで、ボルドーは急速に発展した。町になった。町になるということは、ローマ退役軍人とケルトからの商人たちだけが集まる交易所じゃなくなっていった。鍛冶屋が出来て、食材屋が出来て、船大工がいるようになったんだよ。
当時、専門職は民族単位で別れていた。だからボルドーは自然に沢山の民族が集まる多民族都市になっていったんだよ。町の中では普通に多言語が飛び交っていたに違いない」
「交易は何語でされてたのかしら?」
「ケルト語とラテン語だ。通詞がいたに違いない。いつも思うんだが、ボルドーは世界最初の交易のために作られた自然発生的ではない多民族都市だったんだよ」
「それが2000年以上前?」
「ん。カエサルがガリアへの侵攻を開始するまで、ボルドーはタクスヘイブンだった。カエサルのガリア侵攻は、ガリアの地を時計と反対回りに進むんだが、最終終着点がボルドーだったんだよ。彼がボルドーに入ることで、町は名実とともにローマの管理下に入ったんだ」
「で、タクスヘイブンじゃなくなった?」
「そうなんだ。町の人々はこれ以上ローマからのお目こぼしはムリ・・と考えたんだろうな。このまま租税回避地区でいようとしたら国として自立宣言をしなくちゃならない。となればローマと戦争になる・・と考えたんだろう。
もし、政治家からそちらへ進むかもしれない。しかしボルドーは商人たちが作った町だ。商人にとって糧の道を失う戦争は最も回避すべきことだ。彼らはローマを受け入れた」
「すごい判断ね」
「ボルドーはローマの管理下に入って税徴収されても、事業が先細りにならないと踏んだんだろう」
「どうして?」
「葡萄畑だよ。彼らはワインを地中海側から運ぶだけじゃなくてボルドー周辺でも生産できるように、葡萄畑の開墾を始めており、これが成功していたからなんだ。実は葡萄は温暖種だからな、栽培できる北限がある。とくにスペインとの戦争で退役軍人が持ち帰った葡萄は、フェニキア人たちが地中海を運んだ種類なので温暖種だ。これはボルドーでは育たなかった」
「あれま、それは大問題ね」
「寒冷種が必要だった。ボルドーは、イベリア半島カディス/グラナダで交配された葡萄を植えた。今のメルローの原種だ。それとドルドーニュ川上流から拡散して定住化していたリグリア人が持っていた寒冷種を使用した。彼らが持っていたのはローヌ川に広がったアロブロゲス族が持ち込んだ寒冷種だ。アロブロゲス族の寒冷種はバルカン半島の北で産まれている。つまり二つの・・4000km先離れた寒冷種がボルドー東、ドルドーニュ川左岸で花開いたわけだ」
「それが今のメルローやカベルネ・フランの祖型になった?」
「ん。まさにそうだ」
「なるほどねぇ。地中海側とボルドー側と栽培されている品種が違うのは、それが理由なのねぇ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました