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ワインと地中海/kindle版

母の化粧机の横に色々な化粧品と共に、淡青色の歪な球形のガラス玉が有った。
親指爪くらいの大きさで不透明だった。置かれている木台は、葡萄の幹を加工したものだったと思う。ガラス玉は表面に幾つもの同心円の黄色い模様が描かれていて、その中心がすべて穿ってあった。見つめていると一つ一つが眼球のように思えて、不思議な違和感のある置物だった。
子供の時、母に聞くと「地中海の人たちの魔除けだよ」と言った。「父さんが亡くなる前に置いてったものだよ」
父は米兵だった。僕が2才になる前に亡くなった。・・いま思うと、母は逝ってしまった父の思い出をすべて封印していた。写真は全てアルバムにまとめられて、父が置いていったジュラルミンの大きなケースに入れられて押入れの奥に仕舞われていた。それでも一つ、その球形のガラス玉だけが化粧机に在ったのだ。僕が日々父を感じるのはその淡青色の歪な球形のガラス玉だけ・・だった。
高校時代。それが時折地中海で出土するフェニキア人の作ったmosaic glass inset瞳嵌入玉なことを知った。5000年くらい前のもののようだ。父はこれをどこで手に入れたのか?
父は海兵隊Marinesだった。参戦は太平洋なはずだ。職業軍人だったから、その前は欧州戦線に居たのかもしれない。・・父はあの戦争で地中海を見たのだろうか?ヒトラーが墜ちた後、マッカーサーはスターリンの追跡を躱しながら、密かに大量の兵士を欧州戦線から太平洋へ移している。父はその一人だったのか?可能性はある。
あるとき、僕は母に聞いた。母は「知らないよ」と投げるように言っただけだった。

・・その淡青色の歪な球形のガラス玉に再度出会ったのはルーブル美術館だった。
30半ばを過ぎて、南ドイツの企業に勤めていたころである。
僕はその会社にメンテナンス技師として務めていた。主に製薬工場で使われる製造機械のメーカーだったので、派遣先は街から遥か離れた辺境地ばかりだった。長いときは、ひと月ふた月と一つの工場に滞まる仕事だ。孤独な仕事だった。でも僕はこの仕事が好きだった。出張先で、絶対に自分では辿り着けないような遺跡を訪ね歩けたからだ。
面白いことに、こうした職種には古代熱に浮かれた人が割といた。あるとき「なぜ地中海なのか?」と僕に聞いた仲間がいた。彼も遺跡フリークだった。
「父が残した形見にフェニキア人の作ったmosaic glass inset瞳嵌入玉が有ったんだ。僕は父が追ったものを、同じく追ってみたかったんだと思う」そう言うと彼はどんな形か?と聞いた。絵を描いて見せると、彼は暫く見つめてから言った。
「ルーブルにあるよ。同じものが。リシュリュー翼・クール・カレ西翼だ。行って見てきてごらん」
僕は衝撃を受けた。
「ベイルートにもあるよ。Musée national de Beyrouthだ。・・あっちは見られないな。内戦のど真ん中にある博物館だから閉鎖されたままだ」

次の休暇のとき、ルーブルを訪ねた。館内を1時間ほど歩いて出会えた。"それ"はガラスケースの中に、幾つか他のガラス玉と共に置かれていた。たしかにリシュリュー翼・クール・カレ西翼だった。僕は呆然として立ち尽くした。添えられた「フェニキアPhoenicia出土」という文字が僕に刺さった。海の民・フェニキア・・痛烈な潮の香りに幻想の中で浸った。

50代になって自立した。仕事はやはり、ウロウロと世界を歩くものだった。90年代に入ってから、ベイルートには何度も通った。大好きな街の一つだ。仕事が終わった後、一人で過ごすザイトゥナ湾の港に並ぶ店が好きだった。しかし憧れの国立博物館Musée national de Beyrouthは相変わらず閉鎖されたままだった。博物館が有るダマスカス通りは内戦時代、最前線だったからだ。博物館は高い壁に囲まれて、外装をまともに見ることも出来なかった。
当時付き合いがあったベイルート在住の同業者にその話をふると、全員が肩を竦ませた。
「あそこは内戦の時、兵舎になったんだよ。略奪も酷かったし、建物はボロボロにされて落書きだらけになってる。それと地下水にやられているそうだ。再建の目途は立たないな」
ある地元出身の人が言った。彼は僕とほとんど同い年だった。
「アイン・ルマーネ事件Ain el-Rammanehのとき、俺は大学生だったよ。衝突はあの時からだ。マロン派とPLO民兵の報復戦で無辜の人がたくさん死んだ。そのうちドゥルーズ派がマロン派と対立し始めて混乱を極めた。我が家はロンドンへ逃げたよ。この辺り(ザイトゥナ湾)のホテルは先負民兵たちが徴収して兵舎になっていたそうだ」
「シリアの軍事介入?」
「76年だ。イスラエルが入ってきたのが77年。マロン派民兵LFを傀儡にして78年にリタニ戦争が起きた。そして聖戦を標榜する自爆テロが無数に起き始めて収拾が付かなくなって、ベイルートは我々が還る場所ではなくなってしまった。父は毎日のように嘆いていた。よく憶えているよ。いまこうやって、収拾はついていないが戻ってこられるようになったことはありがたい」
彼にとっては、博物館より貿易港の再開の方が重要だったのかもしれない。

国立博物館Musée national de Beyrouthが再度公開されたのは1997年の年末だった。
僕は無理やり仕事を作って出かけた。伝手を辿ってAUB/American University of Beirutkで考古学を専攻する学生にガイドを頼んだ。彼はレバノン人だが出身は英国だそうだ。
しかし、いざ博物館を訪ねてみると・・公開されているのは一階の一部と、地下の・・これもまた一部だった。見学する目の前でかなり大規模な修復が続けられていた。ガイドを頼んだ学生君は定期的に此処の修復作業に参加しているとのことだった。
「地下水にやられてコレクションの腐食と破損が酷いです。まだまだ時間がかかります」と彼が言った。
地下の展示室にはホルスの目、コガネムシ、そして太陽三日月などが展示されていた。お目当ての瞳嵌入玉はなかった。
僕は、母の許に有る瞳嵌入玉のことを彼に話した。
「日本にあるのですか?」彼が言った。僕が母は東京で暮らしていると云うと笑った。
レバノンは、国内にある考古学的文化遺産を全て国有のものとしていまして、小さいものでも個人で持っていると返却が要求されます。父上の思い出のものでしたら、そのままにしておく方がいいでしょう」
博物館は翌年春に再度閉鎖になった。
再々開は2014年だった。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました