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ワインと地中海#55/シラクサ散歩03

Spiaggia Diana nel Forte(V. Eolo, 46, Siracusa)を出て、そのまま海岸沿いのエアロ通りを南へ歩いた。
「シケリア西部をギリシャ人たちが攻め始めると、カルタゴはすぐさま本土から兵士を送り付けた。軍事力では圧倒的にカルタゴのほうが勝っていた。しかし思うんだが、カルタゴ側にシケイアに住むギリシャ人を殲滅させてまで、シラクサを自分たちの手にしたいという気持ちが有ったか・・ということだ。シケリア戦争でのカルタゴは、どう見ても総力戦を仕掛けていない。ギリシャ人たちが降伏すれば占拠してそれで終わり・・という姿勢のように思う。そのへんにギリシャ軍との気質の違いがあるように思う」
「帝国化しても、フェニキア人の本質は共存共栄なのね」
「カルタゴは、ギリシャ勢を追い詰め。シラクサまで何回も迫っている。しかし陥落までには至っていない」
「ディアナ砦はそのときに作られたのかしら?」
「そうかもしれないな」

そのまま歩くとCalarossa Caffè(Lungomare d'Ortigia, 18, 96100 Siracusa)+3909311854784という店が有った。
外のテーブルでロゼワインを頂いた。
https://www.facebook.com/p/Calarossa-Caffè-100032869190381/

「シケリア戦争が始まったのはB580年ころだった。これがポエニ戦争へすり替わるまで300年間続いた」
「300年!300年も!!」
「ギリシャ側にシケイアを完全掌握するほどの武力はなかった。カルタゴ側も、ギリシャ人を完全殲滅させてまでシケイアをオノレの管理下にする気持ちは・・ホントのところなかった。だから戦いは何度も収斂し、まさぞろ始まり、そして収斂するを繰り返したんだ。そしていつのまにか基本的に島の西側はポエニ人のもの、東側はギリシャ人のものになっていた。そこにローマ軍が流れ込んだんだ。それが第一次ポエニ戦争のきっかけらなっていった。BC267年だ」

ローマのやり口はいつもの方法だった。シチリア内にあった二つのギリシャ人都市国家の内紛を利用した。
BC288年、メッシーナという町をカンパニア人の傭兵部隊であるマメルティニが占領した。彼らは勢いに乗じてシラクサを攻めた。王ヒエロ二世はこれに対抗するが、劣勢となり援助をローマとカルタゴ両方へ要請した。援助として駆け付けたのははカルタゴのほうが早かった。議会制をとるローマは決定までの時間がかかるからだ。しかしいざカルタゴによって優勢に回りはじめると、王ヒエロ二世は次第にカルタゴを忌んだ。そこにマメルティニへ加担するという理由で、ローマが雪崩れ込んだ。BC263年である。カルタゴを忌み嫌うギリシャ人、血に飢えたマメルティニ、そしてローマ兵。カルタゴ軍。四つ巴の凄惨な戦いにシラクサは落ち込んでいった。この戦争は20年続いた。終結したのはBC241年だった。カルタゴは、完全にシケリアから撤収した。以降シケリアはローマの属州にされている。このときシケリアにあったギリシャ人都市国家はすべてローマに併合されてしまったのである。
「ひとつだけ例外が有った。要塞都市シラクサだ。ヒエロ二世が統治するシラクサだは独立自治が認められた。ヒエロ二世はカルタゴから送られたハンノと共にローマと戦った。ローマから送られてきたのは執政官アッピウス・クラウディウス・カウデクスだった」
「知らない名前の連発ね」
「第一次ポエニ戦争の切り口を作った男だよ。クラウディウスは武官一族でね、その一人だ。元老院はシチリアでカルタゴと戦いになることについて及び腰だったんだ。それでも好戦派に押されてね、致し方なくアッピウスを送り付けることになった。ところで。ローマ人は名前の後ろに、他の人がその人物を呼ぶときの、謂わば仇名cognomenが付く。アッピウス・クラウディウスAppius ClaudiusはカウデクスCaudexだった。カウデクスは大バカモノという意味だ」
「あらま」
「カルタゴとローマの戦争は主に海戦だったが、クラウディウス・カウデクスが本陣を置いたのはマメルティニが占拠していたメッシーナだった。メッシーナは本土に隣接した町だ。ヒエロ二世のシラクサまで150kmくらい北にある。クラウディウス・カウデクスは此処を拠点として、陸海を持ってシラクサのカルタゴ軍を攻めた。これが第一次ポエニ戦争の初端だ。
実はこの時、機を見るに敏なヒエロ二世は、唐突にローマ側に寝返ったんだ」
「寝返った?」
「うん。最初に助けに来たカルタゴを捨てて、ローマと協定関係を結んだんだ」
「あらま」
「ローマとシラクサは、長い間、友好な交易関係を結んできていた。ローマはシラクサからワイン屋農作物を大量に買っていたからね。それがマメルティニの侵略によって破壊されてしまったが、マメルティニが滅んでしまえば、その友好な関係をぜひとも取り戻したい。ヒエロ二世は、そう考えたんだろうと僕は思う。もちろんカルタゴとも。交易関係は結んでいたが、ギリシャ出自の彼らにとって、やはりカルタゴは競争相手でしかない。心情的に協働することは難しい。となると・・やはり近隣するローマを選ぶ、というヒエロ二世の判断は正しい」
「なるほどね。結局、ヒエロ二世はフェニキア人が嫌いだったのね。フェニキア人に対して、対抗心というよりコンプレックスがあったのかしら」
「そうかもしれない。・・BC241年にローマ軍は、ヒエロ二世と協定することで、シケリアを完全制圧した。そのとき、ローマはヒエロ二世との協定を守り、シラクサとその周辺を独立自治国として認めたんだ。そして旧来を越える大きな通商関係をシラクサと結んだんだ。ヒエロ二世は、見事シラクサを守り切った訳だよ」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました