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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#07/アヴィニョン#07

https://www.youtube.com/watch?v=swvo-pcb-Yk

313年にミラノ勅令を出したコンスタンティヌス帝が翌年314年にアルルでキリスト教会会議を開いている。この会議にはアルル、マルセイユ、ヴェゾン、オランジュ、アプト、ニースからそれぞれの教会代表者が集まったと記録が残っている。つまり既に各地でキリスト教が定着しつつあったということだろう。布教者たちの殉教から250年近く経っている。・・250年は長い。
もともと西地中海沿岸は、リグリア人/フォカイア人たちの地だった。そこへ、交易のためにローマ人たちが入ったのは、かなり早い時期だった。イベリアへの中継点として同地は極めて有効だったからだ。・・人が増えれば、そこを目指して布教者たちは進む。布教者たちが渡ったことそのものが、実は同地の隆盛を示しているといえよう。
実はナルボンシスの入植たちには、きわめて特徴をもっている。それは大半が退役者だということだ。
ローマはヒスパニアとの戦いで、大量の傭兵を利用した。傭兵はゲルマン人であり、ガリア人だった。彼らは退役するとローマの市民権を得て、幾何かの金を受け取る。そして土地を与えられるのだ。イベリア半島で戦った兵士たちに与えられたのはピレネー山脈東側の土地だった。彼らはそこに農地を開いた。大半は葡萄畑である。葡萄はイベリアから持ってきた耐寒怜種だった。
ローマとしては危険をはらむ国の緩衝地に元軍人を置くのは極めて有効な戦略だった。彼らは作った葡萄からできるワインをイタリア要塞都市から北海へワインの交易へ向かう商人たちに売った。
これらの、元軍人とその家族が、キリスト教布教者たちのターゲットとなった。多くの傭兵はアリウス派のキリスト教徒だったから、ローマ教会へ換わることらはそりほど抵抗はなかったに違いない。史料には残っていないが、他国における殉教者と比較しても、西地中海での布教は比較的スムーズだったのではないかと・・僕は思う。
そして476年。西ローマ帝国は崩落。たしかに交易は一気に減退したが、その頃にはピレネー山脈の北側に新産業地として退役軍人たちが起こしたボルドーが機能しているため、世情不安になることはなかった。とくに西ゴート王国王エウリックEuricが西ローマ崩落と共に西地中海へ勢力を伸ばしたため、必要以上の混乱はむしろ起きないままで済んだ。しかしこの西ゴート王国拡大は危険を孕んでいる。北にクローヴィスが率いるフランク王国。東にローマのフォエデラティfoederati(同盟者)だったブルグント王国と国境を重ねてしまう。三つ巴の戦争は必至になるとエウリック王は覚悟していただろうと僕は思う。
しかしフランク王国の狙いは、プロバンスではない。より豊かな資源力をもつブルグンド王国である。この両国の戦いは508年まで続いた。続いて始まった西ゴート王国への攻撃は536まで続き、最終的にはフランク王国が勝利し、西ゴート族はピレネー山脈の向こう側イベリア半島へ退却した。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました