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共通語

自分の使う言葉が「万人共通」のものではないらしい、ということに気づかされたのは4~5歳の頃。

この世に生まれて最初の記憶は、たぶん2歳半くらいの頃のこと。
そのとき住んでいたのは徳島県の西部地区。
2歳になったばかりの頃に、父親の転勤で生まれ故郷の愛媛県の松山から徳島県に引っ越したのだけど、幼かった私は、そのことは覚えていない。私の人生の始まりの記憶は、引っ越し先の徳島の池田という町で暮らしていた頃のこと。


引っ越し後、母方の祖母が松山から池田までやって来てしばらく滞在した後、帰るというとき、駅まで父や母と一緒に見送りに行った。

そのとき私は祖母の手を引っ張り、列車の方へ行かせないようにした。
当時の自分の感情は覚えていないが、おそらくは祖母と別れたくなかったのだろう。祖母の手を引っ張って駅から家へ戻ろうとした記憶が残る。
祖母も両親も笑っていたこと、それぞれから諭されたことを覚えている。

また、家の裏庭で育ったきゅうりがとても大きく育ち、そのきゅうりを幼い私がかかえた状態のときに父が私にカメラを向けたら、現像した写真では、きゅうりがなすにしか見えなかったという記憶もある。白黒写真の時代だった。今も私に残る記憶の中の父と母は、写真を見ながらきゅうりがなすに化けたな、と笑っている。

池田は、雪がたくさん降るところだった。雪が積もると、どこまでもどこまでも白い道が続いた。その道を長靴を履いて歩いている母と自分の姿は思い出せるものの、歩くのが大変だったという記憶はない。
私の人生でいちばん大きい雪だるまを作ったのは、その池田に住んでいたとき。
休日だったのだろうか。近所の人がたくさん集まってきて、それぞれ家から道具を持ち寄ってワイワイ言いながら、もちろん子供たちも参加して大きい雪だるまを作った。
あれ以降、あんな大雪が降る場所で暮らしたことはないので、今となっては貴重な経験なのかも。
でも、今の時代、近所総出で雪だるまなんか作らないか…(苦笑)

暑い季節には、家の裏が崖で、その下には川が流れていたからか、アオダイショウのめっちゃでっかいヤツが窓からひょっこり顔を出したこともある。父親は不在で、母親がちょっと慌てていた様子だった。毒蛇ではなくても、かまれたら大変だということで、近くのおじさんが蛇退治にきてくれた。

現在とは違い、非常に自然豊かな時代だった(苦笑)

そういう土地で約2年間ほど生活した後、松山(生まれた家)に戻った。

生家の近くには崖も川もなく、アオダイショウの姿を見ることがなくなってしまった(といっても、それは生家の近くにはいなかっただけで、あの時代、アオダイショウはそれほど珍しくはなく、私はけっして会いたくはなかったのに、その後何度もヤツらにはお会いしている…笑)。

商家が立ち並ぶ通り沿いにあった生家の前は車が行き交う道路。自家用車を持つ人などはいない時代。現在のような交通量では全然なかったのだけれど、向かい側のお宅に遊びに行くときは、走ってくる車に気をつけるようにとは言われていた。近くの家で飼っていた犬が路線バスに轢かれたことがあった。
家の近くには映画館があり、就学前の子供は無料で、私は近所の同年代の子供たちとしょっちゅう出入りしていた。
私自身は映画を見たいというより、映画館の雰囲気が好きだった。
そんな中で、題名を覚えているのは「新吾10番勝負」という映画。
その後何年も経って、テレビの時代劇で大川橋蔵さんの姿を拝見したとき、私、この人知っている…と思ったのだから、記憶力はあるらしい。


話が逸れた。

愛媛に戻った頃、母親が近所の人と世間話をしているときに、近所の人の「mikelanちゃんは、徳島から戻って、もうこっちの生活に慣れた?」という問いに、母親が「本人は困っていないらしいけれど、親としては、あの子の徳島訛りや方言がなかなか抜けないのが気になる」という返事。

母は、私に内緒の会話をしたわけでもなく、一方の私も盗み聞きしたわけじゃないのだけれど、幼い私には母の「徳島訛りが抜けない」という言葉がなかなかのショックだった。

当時の私は、幼かったから訛りだとか方言だとかという言葉の意味も、それらがどういうものかも具体的には知らなかったはず。
ただ、池田から戻ってからの生活の中、様々な場面での会話における自分とまわりの同年代の子供たちとでは、使っている言葉だとか言い方だとかに多少の違いがある…みたいなことはなんとなく認識していたんだと思う。

かといって、私がそれを気に病むような性格ではなかったことも確か。
言葉が違っても、アクセントが違っても、お互いに意思疎通はできていたのだから、私もまわりの友達もそんなこと気にしていなかった。

しかし…。

自分の使う言葉が、世の中での「正しいもの」ではないんだということだけは、そのときはっきり自覚した。
住む場所によって、言葉や言い方が違うということを知った。


松山に戻ったといっても、生まれてから2年ほどの生家での記憶はないのだし、徳島へ行く前の私は、幼児語を口にするくらいで、きちんとした会話はまだできない状態だったはず。
徳島へ行ってから、次第に言葉も覚えていき、ようやく会話ができるようになり、その頃からの記憶が残っている。
徳島ではまだ幼稚園へは行っていなかったけれど、日中は隣近所の子供たちと泥んこになって遊ぶ中で言葉を覚えていったのだから、その当時の私の言葉は、当然徳島地方の方言だったはず。

それでも、愛媛へ戻ってから徳島訛りのことを近所の子供たちから指摘されたことはなかったし、両親や、同居していた母方の祖父母からも何も言われた記憶はない。

だからこそ、母親のそのときの発言は私には驚きで「えらいこっちゃ。私のしゃべり方は間違っているんだ、直さなくっちゃ」と思ったことは、昨日のことのように覚えている。

しかし…。
「えらいこっちゃ」「直さなくっちゃ」とその瞬間に思ったわりには、元来が大雑把な性格。
結局は、神経質になることもなく、意識することもなく、普通に生活しているうちに、私の徳島訛りはすっかり抜けてしまい、次第に松山訛りに変わっていった。
だから、徳島訛りってどういうものなのか、現在の私にはまったくわからない。徳島方言も知らない。徳島県内で地域によってどのくらい言葉が違うのかも知らない。

ちなみに、もう10年以上も前にはなるけれど、池田で幼い頃住んでいたであろう場所を探しに行ったことがある。駅周辺の様子は記憶にあるものとは違ってすっかり変わってしまっていたけれど、駅前の道路が続く様子に見覚えがあった。おおよその見当をつけて行った、昔住んでいた家があったであろう場所には、もちろん昔の建物なんてなかったけれど、崖下に川が流れていたその場所は、あのアオダイショウがいたところ(笑)だと確信できた。
アオダイショウが生息できるような環境ではもうなかったけど。


今思えば、母が私の徳島訛り(たぶん池田訛り)を嘆いたのは、単純に近所の人とのその会話が社交辞令的なものだったから?(苦笑)
その前もその後も、結局母親は私に徳島訛りを直すようになんてことは一切言わなかった。


同じ県内であっても、地区によって使う言葉や言い回しは微妙に違う。
でも、お互いにそれをいちいち指摘し合ったりはしないのは、それぞれお互いほぼ意味はわかるから?
意思の疎通ができるし、それほど大きい違和感や拒否感を抱くまでには至らないから?

同県内を超え、四国という範囲になると、言葉や言い回しは微妙どころか、けっこう大きく違うのだけれど、それでもお互いに、おそらく許容範囲内なのだろう(笑)

小学5年で香川県に引っ越し、転校となったが、私はそこでも言葉に関して大きく困ったことはない。生まれ故郷の言葉に比べると女の子たちの言葉遣いが何だか非常に「汚く」感じたけれど、それを本人達に対して指摘したことは一度もない。
彼女たちにはそれがあたりまえの言い方で、「汚く」なんて感じていないことはすぐに理解できた。

非常に「汚く」感じたその言葉遣いは、その当時も、結婚でまた香川に住むようになってからも、私自身の人生では一度も使っていない。
一方「汚く」は感じなかった言葉(方言)については、当時、小学生の頃も使ったし、たぶん今も使っている。
あまり意識はしていないので、自分ではよくわからないけれど。

私の中では、それは小学生の頃、まわりに迎合したということではなく、自然の流れだったと思っている。
言葉というものは、日々シャワーのように浴びているものなので、私の場合は、無意識に身についてしまうのだと思っている。
「汚く」感じた言葉遣いだけは、私が意識してそれを弾き、その言葉の方が自然の流れに寄ってくることができなかったのか、それとも私のもっと深い部分の無意識レベルでの排除だったのか、それは自分ではよくわからない。

その言葉遣い、最近の若い人はほとんど使わなくなったけれど、私より10歳ほど下の世代までは、ごく普通に使っていたし、今も耳にする。
その言葉、私も今では「汚い」言葉とは感じない。
自分が使わないだけ。使わないというより、この年齢ではもう自分の言葉にはならない。つまりは使えないということ。

転校してしばらくは、同級生たちとお互いに方言の意味当てごっこで遊んだりもした。つまり、松山の方言が理由でいじめられたりはしなかった。
そのうちに私は讃岐訛りになったはずだけれど、3年半後に、また引っ越しで愛媛に戻ったとき、新しい友人達に香川の訛りや方言を指摘された記憶はやはりない。


それから数年後、大学進学で東京へ出た。
東京で出会った人々は、みんな親切だった。
銭湯で出会ったおばちゃんは、銭湯の入り方が関東と関西では違うということをご自分の経験から教えてくれたし、アパートの照明器具の取り付けに来てくれたお兄さんは、電車の路線図を手書きしてくれて、そのアパートからは遠く離れた場所に住んでいた大家さんの情報よりももっと便利な移動方法を細かく丁寧に教えてくれた。
私が地方から来たことはわかっていても、ふたりともそれを見下すような態度は一切なかったし、彼らの話す言葉からも、嫌な印象はまったく受けていない。

時代もよかったのかもしれないが、当時の東京生活で、地方出身者という理由による嫌な思いの記憶は、ほぼない。
このふたりだけでなく、親切な人が多かったし、とっても短い期間で終わった(自分の意志で終えたのだけど)東京の印象は、想像していたよりも優しい場所というものだった。

たった一度の例外はあったけれど…。


東京で暮らしている人々の言葉遣いは、まだ若くて順応力が高かった当時の私でも、少々気になることがあったのは事実。
私にはテレビのアナウンサーが使ういわゆる「共通語」と、東京の人たちの言葉とは、少し違って聞こえていた。
それはほんの少しの違いであり、けっして大きいものじゃないけれど。
みんな、おそらく自分の言葉がいわゆる標準だと思っているのだろうけれど、地方者からすると、生粋の東京人だという相手であっても会話中に「え? それって正しいの?」っていう感じがすることは、今でもたまにある。

確かに発音アクセント的には「共通語」に準じていて、それが標準と言えばそうなんだろうけれど、人間ひとりひとりには話し方にけっこう癖があり、それなのになぜか人々はその癖は棚上げし、「私は正しく標準語をしゃべっている」みたいな態度が多少なりとも見え隠れする。

その状況、私としてはちゃんちゃらおかしく思えてしまう(笑)
しゃべりのプロではないのだから、その話し方にひとつの間違いもないなんてことはないはず。
ま、ご本人たちが自覚していないのだし、それはそれでそれなりに幸せなことなのだろうから、他人がとやかく言うべきことじゃない。
だからわざわざ指摘などしない。


私に、若かりし頃一度だけ嫌な思い出を残してくれたのは大学職員。
その人については、最初からなんだかビミョーに、いや~な話し方をする人だな、という印象を抱いていた。

彼は面談途中で、私の履歴を改めて見直しながら、「あ~、君は四国の人だからその訛りなんだね」のひとこと。
私としては、「面談前に履歴見ておけよ」と思ったし、「そういう言い方、めっちゃ失礼だ」とも思った。
「その訛りの、『その』って何?」「四国といっても広くて、地域によって訛りも方言も全然違うってことは、あなたのそのかぼちゃ頭では理解できないんだろうね」「そういえば、あなたのその言葉も共通語の言い方とは少しばかり細かいアクセントは違うように私には聞こえているんですけど~?」…。
「その訛り…」と言われた瞬間、立て続けにそう思ったものの、もちろんそんなことはおくびも出さなかった(笑)

その人が自分の目の前にいる四国から来た者なんかとは違い、自分は方言も使わないし訛りもないから優れているんだ、と思い込んでいる様子がありありと見てとれた。
立場上優れていたことは間違いない。

しかし…。
言葉に優劣はない。

相手がどういう人であっても(たとえば自分の嫌いな人や目下の人であっても)その人の使う言葉に敬意を持つことができないのは最低の人間だと私はそう思っている。
私は、それが正しい「共通語」を使う人であったとしても、「共通語」以外を使う他者を端から見下している人とは相容れない。


18歳のときに言われた「その訛り」は、今の私にもある。
でもきっと、あのときの「訛り」と今の「訛り」は違う。


言葉は生き物。
使う人の中で変化も進化もし続ける(と個人的にそう思っている)。


20数年前、夫の父親が愛媛の宇和島で約2年間入院していたとき、夫の母親と交代で、私は病室での介護にあたっていた。基本は完全看護であっても、看護師の仕事量が増えてしまう非常に手のかかる患者(うちの父親も含め)さんの数が圧倒的に多く、家族の付き添いがないと何時間も汚れたおむつをしたまま放置されてしまうような状況だった。家族が付き添っていて、患者のちょっとした異変に気がつき、慌てて担当看護師に伝えても、その看護師の器量によっては、交代時間で担当が代わるまでその異変が医師に伝えられることなく、長い時間放置されてしまうことも数回経験した。
毎朝、今日の担当看護師は誰なんだろう?と気が気じゃない日々。
仕事のできる看護師さんだと、その一日は心からほっとした。
1年後に、ようやくヘルパーさんと呼ばれる職員さんが配置されるようになったけれど、それでもまだ人手は足りない状態だった。

父が亡くなるまでの2年と少しの間、母と私は院内での介護を続けた。
介護保険制度が始まる少し前の時代。
病院以外に父のような症状の人を受け入れてくれる施設はまだなかった。
その病棟での入院患者家族の半数以上が、病院内に寝泊まりしたりして介護にあたっていた。
院内には患者家族用の風呂がなく、銭湯までは歩いて20分以上と遠かったので、みんなそれぞれとても大変だった。病院周辺には日中だけ開いている食堂や弁当店はあったものの、コンビニはなく、付き添い家族は自分の一日分の食料を調達するのにも苦労していた。病院内の売店は市の経営なので、ごくふつうのティッシュペーパー5個入りが定価で売られていて、750円もしたから、その売店で気軽に何かを買うことはためらわれた。


患者及び付き添い家族は宇和島市内の人だけでなく、どちらかといえば市外の人の方が多く、遠くは県境を少し超えた先の高知の人もいて、毎日いろいろな方言が飛び交っていた。

看護師さんの出身地も様々。
同じ南予地区でも、宇和島と八幡浜では微妙に言葉に違いがあるのだけれど、看護師さんたちだけは、出身地が違ってもなぜか宇和島弁。
私が知る限り、宇和島では「こちらへいらっしゃいな」を「こっちへきさいや」と言い、八幡浜では「こっちへきなはいや」と言うのだけれど、なぜかそこの病棟での看護師さんたちは、「きさいや」に統一されていた(笑)

高松出身だという看護師さんと話していたとき、私の口から今までその意味では一度も使ったことがない讃岐方言が口から出たのには私自身がびっくりした。
彼女には、その意味がもちろんすぐに伝わり、ふたりだけの世界が成立してしまったのだけれど(笑)

「うまげな」というその方言は、私は汚い言葉と思ったことはないので、その方言の「調子よすぎる」だとか「都合がよすぎて(ちょっと怪しいかも…)」という意味ではそれまでもよく使っていた。
「調子よすぎる」ということを表すにはぴったりな表現だと思っている。

しかし「うまげな」にはもうひとつというか、どちらかといえばそっちが本来であろう「立派な」だとか「素敵だ」あるいは「素晴らしい」だとかという意味がある。
この意味合いでのその言葉については、私は子供時代からずっと違和感がある。
だから、私はその本来の意味での「うまげな」を昔から一度も使ったことがなかったというのに、なぜかその看護師さんとの会話では本来の意味として「うまげな」という言葉がすんなり口に出た。
彼女の持っていたボールペンが様々な用途で使える優れものだったから。
病院内では、愛媛の言葉が飛び交っているので、その場所で唯一讃岐弁が通じる彼女を前にしたとき、私は思わず讃岐弁になったのかも。
その看護師さんは、高松を離れてから時間が経っていたようだったし、日頃は患者さんに対し愛媛弁(もちろん宇和島「きさいや」派…笑)だったから、私のその言葉をとても懐かしいと感じた様子。


それから約10年後、今度は私自身が脳疾患で松山市内の病院に2ヶ月間入院することになってしまった。
幸いなことに言語や運動機能に大きい不都合はなく、リハビリは空間認知機能低下や視野失念に関するものくらい。
子供のころから大嫌いだった折り紙や、面倒だとしか思えないという理由で昔からさっぱり興味の湧かなかった数字や言葉探しゲームみたいなものがそれらの機能回復にはけっこう役立った。
本当はどれもこれも好きじゃないことばかりだったけれど、元の日常生活に戻るためには励むしかない。

ある日リハビリ室へ向かうとき、私が「さあ今日も幼稚園でがんばってきま~す」と言ったのを聞いた新規の入院患者さんは、私のことを、この人は病気のようには見えなかったけど、でも今言ったことはまったく意味不明だったし、いったい何の病気なんだろう?と思ったそう。

その、愛媛県の宇和島市に近い町在住だという彼女とは、同じ病室で毎日過ごしているうちに仲良くなった。
私の折り紙に興味を持つようになった彼女に折り方を教えていたら、他の患者さんからもお声がかかるようになり、病室前に設置してあったフロア共同の大きいテーブルがあるスペースは、ちょっとした折り紙教室になった。

その頃、彼女に言われたのが、私の言葉が大阪出身の彼女の友人とよく似ているということだった。

私としては、すっかり長くなってしまった入院生活で、結婚後にはもう全く使わなくなっていたはずの松山弁の「行ってこうわい」だとか「あの人がこう言よったけん」なんていう言葉がすんなりと口をついて出るようになり、あれ?私の讃岐弁はどこへ行った? それにしてもやっぱりふるさとの言葉は忘れないんだな…と思ったりもしていたのだけど。

彼女によると、私の言葉のアクセントは、愛媛のそれではなく、彼女の友人の大阪言葉に非常に近いんだとか。
確かに愛媛の言葉よりは香川の方が大阪の言葉には近いような気もするけど、私自身は自分の言葉が大阪言葉に似ているとは全然思っていなかった。


その後、長かった入院生活を終え、高松に戻って以降は、松山時代の同級生と会話していても松山言葉に戻ることはない。
両親が健在だった頃の会話でも、私はほとんど松山言葉ではなく、讃岐言葉だったと思う。

ただ、私の使う言葉は生粋の讃岐弁でないことも確か。

ということは、私はいったいどこの人?(笑)

ふるさとはやはり松山ということになるのだろう。
でも、人生最初の言葉は徳島の池田という町で覚えたのだし、記憶の始まりも池田。
そして、人生でどこにいちばん長く住んでいるかといえば、それは今生活している高松。言葉もほぼこの土地のもの。

あ、そうか。
やっぱりあの大学職員が言ったとおり、私は四国の人!(^^)!


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