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超自然的現象を個人が受け入れる日はくるのか ※映画:オッペンハイマーの感想など

作:おがくずにゃんこ

超自然的、という言葉がある。
人智を超越した、人間の理解を超えた存在のことをいう。


1945年。人類は一つの超自然的存在を扱う力を手に入れた。

だがしかし、人類の心、文化、魂は、その力を本当に「扱える」領域に達していたのだろうかーー

カバー写真は、そんな果てしない葛藤を孤独に抱える、一人の物理学者を描く作品である。

オッペンハイマー本人の写真。役者と間違えそうな二枚目

公開からかなり時間が経ってしまった。しかしどうしても「超自然的」というテーマについて書きたくなったので、筆を取る。この先はネタバレも含まれるのでご注意願いたい。

ちなみに私は「科学者は自身が発明した技術に責任を持つべきか?」という論点に対して、責任を持つ必要は無いという立場である。

確かに当時の物理学者が原子の特性を明らかにしたことで、原子爆弾という大量破壊兵器が作成されることになったのは事実だ。しかし、①原子の特性が明らかになったこと、②理論を基に原子爆弾を作ること、③原子爆弾を戦争で使用すること、この3つには大きな違いがある。もし③が大量虐殺につながったのだとしたら、その責任を取るべきなのは③の責任者だろう。

それに、技術というのは捉えようによって人を生かしも殺しもする。自分が良かれと思った親切心が誰かを傷つけることもあるように、何かを為した結果というのはそれを受け取る人によって変わっていく。その果てに③のような結果になったのだとしたら、①や②ではなく、矢面に立っていない③の人間こそ真摯に受け止めるべきでは無いだろうか。

ただこれは私個人の意見であるし、結論は出ないだろうし、①や②を行った人物が何も感じずにいられるわけではないだろう。


映画では①の代表人物としてアインシュタイン、②の代表人物としてオッペンハイマーが登場する。彼らの心境、原爆制作に至るプロセスが緻密に描かれていた。

ちなみにオッペンハイマーは科学者のため、①のイメージが大きいかもしれない。しかし悲しいかな、現在でも研究者の多くは②の貢献度が大きい人が多い。どこかで天才が考えた理論を応用し、ニッチな分野で少しだけ新しい知見を導く。科学というのは地味で、時に驚くほど進みが遅い。映画を観た私の印象として、彼は雄弁な政治家のように人々を動かし、プロジェクトを推進するマネージャーとしての才能があったのだろう。

何もなかった砂漠に街を作ってまで、彼らは開発を急ピッチで進めた

さらにオッペンハイマーには女好きな側面があったということも語られていて、かつての恋人が自殺したという訃報を聞き、罪悪感に苛まれる描写があった。個人的にはその描写と原爆の描写が絶妙に対比的構造をしているように思う。

  • かつての恋人が死んだことへの罪悪感

  • 見知らぬ数十万人が自身の開発した兵器により虐殺されたことへの罪悪感

あまりにスケールが違う話だが、彼の中での絶望感はどうなのだろうか。どちらも辛いことに変わりがないが、どうしてもこう思ってしまう。

後者のような出来事はまだ人間にとって、あまりにも理解を超えた話で、超自然的な現象ではないのかと。


つまり、個人の死がただの単位になってしまうような規模の出来事に対して人間はあまりにも無力で、依然として超自然的な、理解を超えたものではないだろうか。

確かに人間は原子の物理法則を解明し、原子爆弾のような兵器を作り出すことができた。

しかしそれがもたらす結果について、人間は受け止めることができない。予想も制御もできず、依然として無力なままである。

思えば東日本大震災のときも、あれほど安全だと主張していた施設が、予期せぬメルトダウンによって放射性物質が拡散してしまった。そもそも目に見えない(数学者は数式で捉える)放射性物質というものに対して、人間はほんのわずかしかコントロールできていない。

そして皮肉にも、二度の原爆や東日本大震災などにより、人間の無力感をどの国よりも知っているのは日本なのだ。

この映画には、日本人にしかわからない感情があるように思う。ということを言いたくて、ここまで自分の感想を書いた。映画の最後、アインシュタインとオッペンハイマーが出会ったときに何を語ったのか。3時間という長い映画だが、ぜひ実際に観て確かめてほしい。




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