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オチのない話を聞かせて

身近なひとのオチのない話ほど、嬉しいものはないなぁと思う。

オチのない話について考えたのは、つい最近のことだった。それまで私は、オチのない話よりはオチのある話の方が、人間関係の距離に関わらず、求められているものだと思っていた。

そんな私がついオチのない話を友人にしてしまったのは、平日の深夜のこと。

「ごめん。今の話オチなかったね」と返答を待つより先に、謝罪の言葉が出た。そこには私の、オチのない話、嫌でしょ?というスタンスが込められいた。

ちょっとの沈黙が流れたあと、友人は優しい声色で口を開く。

「ミキは高校生の頃さ、よく売店の唐揚げを昼休み並んで買っていたよね。それをゲットできたときは、嬉しそうに教室に戻って報告してきた。

今思うと、あの話にもオチはなかったよね。でも、すごく嬉しそうに話してたのがよかった」

私にはおもしろくもなければオチもない時がある。でも友人は私とずっと一緒にいる、高校、大学を卒業した今でもずっと。

「オチ」だったり「おもしろさ」だったり「発見」だったり、暇になれない大人たちが、他人との会話に対価を求めるようになっていく。

もう子どもの頃みたいに落ちる夕日が「綺麗だった」とか、アスファルトに咲くタンポポが「健気だった」とか、みんないちいち言わなくなったし、そういう話をあまり耳にしなくなった。私も周りも、オチの必要性を意識するようになったのはたぶん、時間がお金に変わる社会で、命のタイムリミットに自覚的になっていったから。

でも、友人の言葉を聞いた今だからこそ思う。

オチのある話とオチのない話、どっちもあってこそ、その人の人生だ。

誰が聞いてもおもしろいネタを見つける日もあれば、SNSに投稿するネタのひとつもないくらい平行線な日もある。ひとりの人間がより濃密に日々を語ったとき、オチのある話と同じくらい、オチのない話も聞くことになるのだと思う。

身近な人の顔を思い浮かべると、人間関係において「オチのある話」だけを大切にするのはもったいない、ということに気づく。オチのない話だって、それを聞くことは、その人についてより知ることができるチャンスなのだ。オチのない話も、彼や彼女の人生を構成する一欠片なのだから。

と思ってからは、「オチのない話」というものを、これまでよりずっと大切に感じるようになった。

友人は、唐揚げの話をしてた私に「すごく嬉しそうに話してるのがよかった」と言ってくれた。もしかしたら、もうずっと前から友人は、私のこんな周回遅れな部分も含めて、優しく見守ってくれていたのかもしれない。

あなたの身近な人のするオチのない話はもちろん、あなたのオチのない話もかけがえのないものです、きっと。

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