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もしかしたら

娘の希死念慮について
思い出し考え言葉にしていて
はたとひとつの仮説が
浮き上がってきた

旦那も私も
彼女が幼いうちから
言葉や理論や考え等を教えてしまった
彼女自身の助けになるだろうと
思ってやったこともあるが
これが「順番間違い」だったのではないか?

人の成長にはどうも細かく段階があるようで
下から充分に満たして行かないと
次の段階に上がって行かない
ということは今までもたくさんあった

彼女の言葉巧みな論理展開に
ついつい納得しそうになるが
どうも違和感があったのだ

昔から今までの記憶をたどってみた
就学当初に
「なんでママはおうちにいないの?」
「おうちでできるおしごとにならないの?」と言ったこと
不登校になった後仲違いをして私が数日出掛けた後の反応
バイト代で激しく散財しているのを止める方法を考えた時
「寂しさの紛らわせ方を探せればいいんだと思う」と言ったこと
つい最近一緒に寝る?と聞くと
「目が覚めた時ひとりで大の字で寝てると寂しいから嫌」と言ったこと

諸々繋げて考え直した時に
浮かび上がるのは
「私は寂しい」
「私は自分が寂しいと感じていることを『信じたくない』」

きっと言葉では足りないのだ
疑う隙を与えない程の
圧倒的な肌感覚が要るのだ
もうたくさん!と言われる程の
あるいは「あって当たり前」と思える程の
スキンシップが必須なのだ

私自身は母から温かいスキンシップを貰っていた記憶があまりない
むしろ肌感覚と言えば「叩かれたこと」だった
だから無意識に娘をたくさん触ることを避けてきた可能性があると思う

息子は異性なので気楽に触っていたかもしれない

まだきっとギリギリ間に合う
彼女に触ろう
撫でてハグして手を繋ごう
その肌の記憶を日々積み上げてみよう
彼女が寂しくても安心できるまで
それを続けようと思う


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