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[1分小説]G線上のアリア

もしも、ひとりの女の一生が壮大で壮麗な一曲だとしたら、そこには「ゆるやかに」でも「歌うように」でもなく、「男性を喜ばせるように」という指示記号がついているのかもしれない。


ずっと、そう思ってきた。



*



久しぶりのクラシックコンサートの幕間。
座席に座りながら、 佳奈かなは手元のパンフレットに視線を落とした。

今日の予定はこのコンサートを訪れることだけだ。
会場に向かう前、彼女は早めのランチを銀座で取った。華やかなショーウィンドウが並ぶ中央通りの二丁目。路面沿いの「風月堂」の二階のティールームで、全面ガラス張りの窓から差し込む春の日差しと、通りの賑わいを浴びながら、ホールの開場時間が来るまで過ごした。


<まもなく開園のお時間です。お席までお戻りください。>
場内アナウンスが告げた。


暗転したホールから、徐々に光を浴びて浮かび上がる舞台。
奏でられたのは『 G線上のアリア 』。
お馴染みの一曲だ。慣れ親しんだ音色に、幕間のざわめきによる落ち着かない心持から、自分の心身がフッと解かれていくのを感じる。


旋律に身を任せ、恍惚に浸りながら、佳奈はぼんやりと自分の深くを流れる通奏低音に意識を向けた。

「男性を喜ばせるように」かー。

知らず知らずのうちに皮肉っぽい笑みが浮かんでしまったことに、我ながら笑ってしまう。

そんな指示記号、気づかなきゃ良かったのかな。

でも私はその指示を満たす方法を知ってしまった。
それ以降、反復練習を繰り返すようにひたすら短い小節を場所を変えながら口ずさみ続けてきた。自分の人生を端的にあらわすならば、まぁどうせそんなものだろう。彼女は心の中でひとりごちる。

今度はこっち、次はあっち。
今度はこの人、次はあの人。
こっちが満たせた、あっちも満たそうー。


ずるい女だと言われるかもしれない。
でも簡単なことだ。

そう振舞うことで女の自分にもたらされる生きやすさ、その味をしめたが最後、場所を変え幾度となく再生していくだけだった。
同じことの繰り返し。いつもの旋律。

共鳴するのは、慣れ親しんだ虚しさと諦め。


*

眩いほどライトアップされた舞台に意識を戻す。

不安定さと少しの寂しさを喚起させる不協和音。
『 G線上のアリア 』は私にやさしく寄り添う。美しい一曲であれるなら、なんだっていい。たとえ曲が結びを迎えた後、それが間違いだったと分かったとしても、そこで奏でられるメロディーはもう存在しないのだ。私の預かり知るところではない。


全ての演目が終わった。
佳奈はパンフレットを4つ折りにして、桜色のカーフスキンの小ぶりなバッグに仕舞い、会場をあとにした。





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