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「女として見てもらえること」への極度の不安と羨望

この世界を「男」と「女」の二分法で捉えるようになったのはいつの頃からだろう。

「女」として自分を眺めるようになったのは一体いつなんだろう。
 
今日はそんな、 #女 ネタの話を。♡

《 第9日目♡/note30日間チャレンジ 》



「人」としても「女」としても、
私は自分に対しての自信が全く持てずにいた。

とりわけ、「女として」の自分に存在意義なんて見出せなかった。


この世界では、
綺麗」か「可愛く」ないと、生きていかれない。
もしくは、堂々と生きていくことが認可されない。

ずっとそんな気がしていたから。

ふいに感じる、男性目線での「女としてのランク付け」みたいなものは恐怖でしかなかった。



だから、これまで

「色を売る」ことで自分の市場価値を測ってきた。

「見染められる」ことで自分の存在価値を見出してきた。









そんな価値付けをした時に最上位に君臨するのが、
私の思う「愛人」というものだった。



男性から選ばれ、金や贅沢、場合によっては衣食住すべてを与えられ、自分には価値があると存分に感じられる地位。


そして、「愛人」という言葉の成熟した香りと、きれいな女性だからこそ成立しうる肩書きであることー。

自分からほど遠い場所にあるそれを、
だからこそ、私は手に入れてみたいと思った。



そんなことを思いながら、

自分もいつか「愛人」になりたい、
なれるかな、きっとなるんだろうな、
などとぼんやり思いつつ、日々を淡々と、普通に過ごしていた。

普通に大学を卒業し、
普通に働き始め、

「愛人」の肩書きを得たのは社会人2年目に差し掛かる頃だった。


愛人になるということは、
自分にとって、自分で決めたことを遂行しただけのこと。

それ以上でもそれ以下でもない。

とても自然なことだった。

もちろん、道徳や倫理観をのぞけば、の話ではあるが。




そこから約2年間、

ずれてゆく金銭感覚への不安、
スケジュールの自由の無さ、
そして将来的な見通しの暗さを理由に関係を終わらせるまで、

「恋人」半分、「仕事」半分のつもりで、
そして自分の「存在証明」をするように、
愛人をまっとうした。



たぶん、絶対、もう二度としない。









「生きていてもいいんだ」と自分に許しを与えるように、愛人という肩書きに縋るように生きてきました。

まわりから見たら滑稽でしかないと思います。




でも、
一筋の光を見出していたその肩書きを捨てた今、 

私は新たな地平を見ている気がします。


「女」として戦う必要はないんだ、

「人」であればいいんだ、と。




もっと早く気が付きたかったです。

ずっと苦しかったから。


でも、今もなお、
「女である自分」しか見えていなくて苦しんでいる女の子って、現在進行形で超たくさんいると思うのです。



そんな女の子たちに、
私ができることは何かないだろうか?


自分の経験を踏まえて、
今ゆっくりと考え始めているところです。




「女として見てもらえること」が唯一絶対の正解だと信じてやまなかった女だからこそ、
伝えられること。



黙っていても人知れず香りが漂ってしまう程に熟すには、

もう少し時間が必要なようです。 ♡



#熟成下書  、少しずつ消化していきます❤

明日もよろしくお願いします!

❤❤❤

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