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永遠のあこがれ、ちくさ正文館

はじめてちくさ正文館へ行ったのは、いつだっただろう。誰かにおすすめされて、なんの気無しに訪れた、その書店の棚を見て、目眩がした。あまりに、輝いていて。どの棚を見ても、次から次へと知らない本、欲しい本、読みたい本が見つかる。

そのころは、二階に喫茶店があった。がらがらの席に座っても、本の眩しさが頭から離れなかった。

このnoteを書くのが、こんなにも遅くなったことを、すこし後悔している。ちくさ正文館へ行けたのは年に1〜2回、合計しても10回にも満たないだろう。そんなわたしが、名古屋の宝のような本屋さんに言及するのは、おこがましいような気がしていた。

いつ行っても、棚を見ると、あまりのすごさに頭がくらくらする。話題の新刊、すこし前の名著、全然知らない出版社から出ている本、ちいさなリトルプレス、それらが等価に棚に並んでいる。一体どうすれば、こんな風に本を仕入れて、並べられるのか、見当もつかなかったけれど、いつ行っても古田店長は本の棚出しをしていた。きっとずっと棚を触っているんだろう、ということだけは、よくわかった。

不思議なことだけれど、棚は人が触ると、印象が変わる。同じ本を置いていても、ずっと触っていないところと、動かしたところの差がものすごくうまれる。それは埃が払われるというような問題ではないような気がする。空気が入れ替わること、が、なぜこんなにも本棚を見るときの気分が変わるのか、わたしはまだわからずにいる。

ちくさ正文館の棚たちは、きっといつも、すごい頻度で変化していっただろう。本当ならば、もっと短いスパンでここを訪れて、その動きをみたいと願っていたが、結局叶わないまま今月になった。

ちくさ正文館が7月末で閉店するらしいという噂を聞いたときの衝撃。実際にニュースになったときのかなしみ。そんなに繰り返し訪れていないし、個人的繋がりも全くないけれど、それでも、わたしは、名古屋にちくさ正文館があるから、なにがあっても、大丈夫だ、となぜだか信じていた。

不遜なことを言うならば、いつか庭文庫の棚をちくさ正文館みたいにできたらいいなぁ、と思っていた。そう思いながら訪れる度に、わたしの力量を思い知らされて、がーんと落ち込みながらも、やっぱり最高だ、大好きだ、とおもって帰路についた。

10年、20年かかっても、きっとやれないけれど、ちくさ正文館が開いている限りは、遠く輝く北極星を見るように、目指していられるとおもっていた、そのちくさ正文館が今月末に閉まる。昨日、久しぶりに訪れて、おそらく同じように閉店を惜しむ人たちに並んで本を選んだ。かなしくて、あまり、棚が見えなかった。

今月末までに、あと何度か、行きたい。
実店舗が閉まっても、ウェブショップがオープンするようだし、それも、楽しみにしている。

それでもなお、あの公園の横にある、そんなにも大きくないはずなのに、膨大な世界を包摂した、ちくさ正文館書店を、わたしは永遠の憧れとして、何度も何度も思い返すだろう。


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