「モール的なもの」【Mall Boyz 論考】 #1
本稿はMall Boyzの楽曲における「モール」の表象について、さらに日本語ラップにおけるMall Boyzの特異性を論じることを目的とする。それは単に彼らの活動を解剖的に解き明かすことだけではない。なぜ、若年層である私(たち)はMall Boyzに惹かれるのか、なぜそれがMall Boyzでなくてなくてはならないのかという謎が、本稿のまずもっての動機である。早速議論に移ろう。
Mall Boyz(以下、本稿ではMBと称す)はその名にあるように
「モール」=「ショッピングモール」を掲げている。これはまず、彼らの
活動を考える上で外すことはできない。まずはこのタームから考えることにしたい。ここで唐突ながら以下の興味深い建築学的観点からの「モール」の定義を挙げたい。幡谷は学術的にショッピングモールは厳密に定義されてこなかったと指摘しながら以下のように定義する。
つまり「モール」とはショッピングモールの店舗でない店と店の間のところなのである。ショッピングモールにはテナントの店と店の間の広々とした道、疲れた親たちの座るソファがあり、光さしこむ吹き抜けがある。大切なのは、そこにadidasがあろうとマクドナルドがあろうとそれらは互いに横断可能だという事実である。つまりこう言える。
→モールは店と店の間のであり、ゆえに横断可能である
では、MBは「モール」はいかなる戦略のもとに打ち出されるのだろうか。間違いなく、それは「Hood」への対抗戦略だとよめる。
「Hood」は日本語ラップでの「地元」を示す用語であり、その本人やグループの活動拠点を指す。「街を歌い地元をRep」というあまりに有名な一節を持ち出すまでもなく、日本語ラップにおける地元感、土着性は大きく意味を持つことは明らかである。これについて本稿では詳しく述べることはできないが、この地域密着性はおそらく他ジャンルと比べた、日本語ラップの活動人口の少なさゆえのコミュニティでの人間関係の緊密さ、インターネットもない時代において地元のコミュニティに所属しなければHIPHOPと出会うことの難しさは容易に想像でき、やはりHoodは日本語ラップと密接に結びついていると言える。
しかし、MBはこう言い切る。
モールのフードコートで集まるような原風景。それは店と店の間であり、ゆえに横断可能なフードコートでのひとコマである。誰かの家でもないたまたまそのとき開いていた席を領土化し「みんな」がそこに集まる。「 I’m alone でもみんないるよ」というようにフードコートが「みんな」を可能にする。
ここでまた注目したいのは「みんな」という言葉だ。
それではHoodの違う人々はいかにして「みんな」になれるのか。
Tohjiはインタヴューで世界中の人々が均一のものに触れているという現代をめぐる状況の新しさを指摘している。興味深いのはTohjiが、違う場所いる人々が「みんな一緒の場所に住んでる」と表現するところである。国際化の進んだ現在、私たちは東京に住んでいても、ソウルでも、ニューヨークでも同じマクドナルドのハンバーガーをたべ、同じマーベルの映画を見て、同じアディダスのパンツを履く。もはやここにはHoodと言えるような地域差はなく均一で無国籍な消費が広がっている。そしてそのことを如実に示すのが他でもないショッピングモールなのである。
Tohjiの言う「一緒の場所」はもはやショッピングモールと同義と考えてよい
この意味で「モール」はもはやHoodではない形での新たなるHoodなのであり、全世界的なノスタルジー(故郷)なのである。
これは日本文学でいえば初期村上春樹/村上龍的な無国籍的とまで感じられるほどアメリカ的、消費社会的姿を示すものであり手放しに歓迎されるべきものではない。
しかし私のような世代にとってモールこそがある意味でのリアルであり、故郷なのだ。ここまで書けば本稿の最初に示した私がなぜMBに惹かれるのかという問いに答えたことになるだろう。
次回の#2ではMall BoyzのMVにおけるエアビ的場所について考えていきたい。
【つづく】
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