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Chapter.3 「好みじゃない人」を愛するということ。(5547字)

「好みのタイプってどんなの?」

 恋人いませんと言った後に続く茶番劇の、骨子となるセリフの一つである。私は長年、この質問が苦手であった。何しろ28年独り身だったのだ。片思いさえほとんどしたことがない。好みを断定するには蓄積データが少なすぎた。
 もっとも、この世には「好きになった人がタイプです♡」というクソしゃらくさい慣用句が存在する。いずれ好きな男ができたら、その男のことを指し示し、堂々と「こちらをご参照ください」と言えばいいのだろう……。私はずっとそう思っていた。

 ところがどっこい。
 実際恋人ができてみると、困ったことが発覚した。なんと、ゲットした男性が、私が事前に想定していた「好みのタイプ」とは違ったのである。

 蓄積データが少なく、「好みのタイプ」を捻出できないくせに「好みのタイプでない」とは何事か。そうお叱りを受けそうだが、私とてかねてより目測くらいはしていた。
 ローンチ前のソーシャルゲームのキャラクターイラストを眺めて、「自分が推すのはだいたいこの辺だろう」とアタリをつける。こんなことは、オタクなら誰だってしている。たとえば私は、「刀剣乱舞」を正式にプレイする前から、自分が気にいるのは加州清光ではなく山伏国広だろうとわかっていた。

「うん、岩融はいける。陸奥守吉行も好みかもしれないし、大倶利伽羅も入ってくるかもな。しかし一期一振は外れるだろうな。私『金色のコルダ』系はテリトリーじゃないし」(わからなくてよい)

 こういう目測というものはほとんど外れることがない。非オタクだって、デパートで服を買うとなれば「私のお目当はヤングカジュアルの辺り」なんて考えるはずだ。あるいは、好みはわからないものの、「少なくともこの辺はないな」という消去の材料なら揃えやすいかもしれない。これまでの人生から、特定のジャンルについて方向性の目星をつけることは、誰にとってもお馴染みの行為のはずである。

 さて、私の「好みのタイプ」(三次元男性)についての目測は、大体以下のようなものだった。
 簡単なところで外見からいくと、まず「イケメン」は嫌だった。私の希望は、「〝いい顔〟をしたフツメン〜ブサイク」だ。フツメンといっても、頭にホイップクリームを乗せた傲慢なスイーツ女子のように、「向井理くらいのフツメン♡」などと言ったりはしない。うちの父親や弟くらいの、リアルなフツメンでよろしい。
 ブサイクがいいとは決して思わない。ただ私、一見してモテそうな、イケてるメンの男は昔から怖いのである。ただイケメンなだけでなく、「体育会系のイケメン」だったら最悪だ。なぜならそういう男は、10代を、スクールカースト上位層として生きてきた可能性が非常に高い。そして私は、そういう男にずっといじめられて生きてきた女だ。その後遺症で、私は今でも、「人気者だった経歴を持っていそうな顔のいい男」が恐ろしい。劣等感と悲しみが刺激され、思考停止してしまうのである。そんな男と付き合ったところでリラックスできるわけがない。だから、イケてるメンズはなし。
 また、中身について求めていたのは、何をおいても「年上の包容力」であった。私という女は、「父を早くに亡くした長女」の典型で、ファザコン精神の権化である。当然その辺の、年の近い男なんぞにはまず甘えられない。断崖絶壁の先で、銃口を向けられるくらいまで追い込まれないとやらないだろう。しかし、恋人にそんな苦労を毎度かけさせるのも人非人である。ここはやっぱり、うんと年上の男に包み込んでもらうしかない。
 あとは、私の趣味がカルチャー方面に偏っているのでその辺に理解があるといいなとか、なんJ語くらいは通じた方がコミュニケーションが楽だよなとか、ジェンダー感覚が古いのは嫌だとかこまごました領域に入る。これらをひっくるめて、「見た感じが地味で、精神がうんと老けていて、オタク的趣味と性質を持っている男」というのが、私の「好みのタイプ」として想定されている方向性だった。

 にも関わらず、だ。

 その後できた恋人はなんと、「顔面偏差値の高い、スポーツマンタイプの、オタクっ気のかけらもない、若々しい男(年下ではない)」だったのである。
 私は戸惑った。まさかこの私が、明らかにモテそうなタイプと交際することになるなんて。週に一回、球技で汗を流す男の彼女になるなんて。「今北産業」も「ぐう畜」も通じない男と一緒に暮らすなんて。

 この戸惑いは、実は出会って早々に感じていたものである。
 彼と知り合って3回目に、初めてきちんと向かい合って話す機会があった。その時、なんだか妙な感じがしたのだ。

「ハテ、なぜかこの人と一緒に暮らすような気がする……」

 こういう感覚を、うまく表現するのは難しい。とにかく私にはその時、「自分のパーソナルスペースに彼がいる状態」が想像できたのだ。流しに彼の使ったコップが置いてあるところとか、彼の着たものがその辺に落ちているところなんかが。そんな感覚は、今まで知り合った男性の誰にも感じたことがなかった。
 いやあでもこの人はないよな、いかにも私の苦手なタイプだし、向こうも私みたいなボロくてガサツな女は好きじゃないだろうし。
 そう思っていたら、三ヶ月後には交際が始まり、あっという間に半同棲状態へと移行していた。あの時イメージした光景が、全部本当になってしまったのである。驚いた。

 ここまで読んで、「恋人のスペックを自慢するな、ピラニアにかじられ倒して白骨になって死ね」と思った方も多いかもしれない。彼氏がイケメンだとかスポーツマンだとか、確かにのろけ以外の何物でもない。私だって、ジャガイモみたいなツラをした男友達が、「ガッキーみたいなカワイイ女だけは勘弁って思ってたのに、結局押し切られて付き合っちゃったよ……」なんて言っていたらそいつをただちに鍋に放り込んで茹でる。
 でもわかっていただきたい。
 これは私にとって大きな試練だったのである。

 みなさんはお気づきだっただろうか。私の、「好みのタイプ」に対する屁理屈が、すべて自分の「恐怖」や「不能感」に紐づいていたことを。

 私、モテ男にいじめられてきた過去があるから、彼氏はモテ男っぽくない人の方がいいの!
 私、ファザコンだから若い男には甘えられないの。だから頼れるオジサン連れてきて!

 「怖い」から、「できない」から〝それ〟は持ってこないで。
 そういうオーダーを発し続けていたら、まさに〝それ〟がドンピシャで送り込まれてきた。他の人の場合がどうなのかはわからないが、それが私の人生の課題だったらしい。
 一見してモテそうな姿をしており、もちろん過去の恋愛経験も私の百倍くらいあり、こちらの方がぶっちぎりで老けて思える若々しい彼に対して、私は頻繁に悩んだ。彼に何かされて悩むというよりは、私が勝手に悩むのである。
 今まで徹底的に避けてきたものが、どんどん目の前に積み上げられ、手渡される恐怖。油断すると、すぐに「どうせこういう人に私の気持ちはわかんないんだ」といじけてしまう。そういう自分の未熟さを、いちいち自分で検分しアップデートしなければならない苦しみ。
 何しろ、相手が好きだから逃げようがない。私はひたすら、自分のブラックボックスに向き合うしかなかった。それはものすごく辛い作業だったし、同じくらい面白い作業でもあった。人生の謎が―—「なぜ、私はここに対してこだわりを持っているんだろう?」といった問いが、どんどん解けていくからである。本当に、彼と付き合い始めてからの半年間で、私は私のことをものすごくよく知ったと思う。

 そしてわかったこと。おそらくだが、「好みのタイプ」には二種類ある。それは「こういう人に愛してほしい」という欲望の対象としての「好み」と、「こういう人を愛したい」という欲望の対象としての「好み」だ。

 私もそうだったのだが、「好みのタイプ」と言う時、前者を想定している人が多い気がする。
 「見た感じが地味で、精神がうんと老けていて、オタク的趣味と性質を持っている男」。私が想定していたこの「好み」の像というのは、結局のところ、私が「こういう人に愛してもらいたい」と思う像だったと思う。いや、もっと正確に言おう。「こういう人に〝一方的に〟愛してもらえたら、私は自分に自信が持てるし、安心できる」と思う人物造形なのである。

 これは、よくよく考えてわかったことだ。私の「好みのタイプ」のイメージの中には、「愛し合う」という観念が希薄だった。あるのは、「こういう人に好かれたい、愛してほしい」という受け身な欲望ばかり。つまり、自分の承認欲求を満たしてくれそうな人物の条件として、私はこれらの要素をあげていたのである。
 だから……認めるのが怖かったが、この人物造形は、私の亡き父に一番よく当てはまる。
 私は幼い頃からずっと、父の承認が欲しかった。だがその父はもういないから、〝父みたいな男〟の承認で、その穴埋めをしたいと目論んでいたのだ。私が「愛す」のは、その承認を得た後のことである。そうも思っていた。

 だが実際のところ、私はまったく違うタイプの男性を愛することになった。彼は私の想定していた「好みのタイプ」——「私の承認欲求を一方的に満たしてくれそうなタイプ」ではない。だが、私は彼に「そっちから先に愛をよこせ。話はそのあとだ」と言う気にならない。彼相手なら、私が〝先に〟出せるのだ。それは、私にとってすごく重要なことだった。

 彼は、私にとってまったく「安全」な相手ではない。むしろ子ども時代の「敵」と同じタイプである。だがなんということだろう、かつての敵は今日の彼ピであったのだ。
 「汝の敵を愛せよ」と言ったイエス・キリストは、「いい歳こいて、親に似た人間に愛され続けることを望むんじゃねえぞ」とは言わなかった。でも、親に似た人間に〝先に〟安心させてもらおうというのは、「イージーモードで生きたい」と言うのと変わらない。そして、そのイージーモードを望んだ人間は、意外とナイトメアモードにまぎれ込みやすかったりする。なぜなら、誰かを(敵でも)気が済むまで愛するよりも、満足するまで誰かに愛されることの方がずうーーっと難しいからだ。
 考えてみりゃ当たり前である。「愛する」は主導権がこちらにある。でも「愛される」は向こうだ。「思い通りに親が愛してくれなかった」無念を、「好みのタイプ」の箱に紛れ込ませるとこの修羅の道が口を開くのである(もちろん、「何がなんでも愛させる」という覚悟を持ち切れば、受け身の恋愛でも主導権は握れる。そういう恋愛を推奨する、『ルールズ』のような本もあるし)。
 私は、「父に似た男にガッツリ承認されたい」と望むナイトメアモードから、「まったくの他者と愛し合う」というノーマルモードプレイに設定変更をした。だからこそ、私にとって一番明確な「他者」であった、「若くてイケメンのスポーツマン」がやってきたのである。
 彼は私にも、私の親にも似ていない。そして私は本当は、そういった人を愛したかったのだ。自己愛でも親の愛でもない、他者への愛を自分の中に見つけたかった。味わいたかった。
 今のところ、私はそれをみっちり味わえていると思う。 

 唐突だが、小池家の人間は全員が『スラムダンク』の猛烈なファンである。十数年前、母と私はしょっちゅう「スラダンの中で付き合うなら誰か、結婚するなら誰か」という話をしていた(暇ですね)。
 私が異性として好んでいたのは、海南大付属高校の主将・牧紳一である。がっしりしてるし、頭も良さそうだし、仕事もできそうだしかっこいい。「地味で老けててオタクで」という私の好みには合致しないが、大人っぽいから好きだった。
 しかし母は、15歳の私に冷たくこう言った。

「牧には、親が決めた婚約者がいると思う」

 無駄にリアリティのある憶測で娘の夢をブロックする、そんな母の推しメンはもちろん三井寿であった。私とはまったく逆の好みである。どうやら、母と私で一人の男を取り合うことはなさそうだ。
 とか思っていたら、私の恋人はまさに三井寿系だった。顔が似ているというわけではないが、性質的に近いと思う。牧の要素は一ミリもない。
 先日、母に彼を会わせた。その後に母は、30歳の私にこう言った。

「Aさんが、みきのことを頼ってくれているみたいでホッとした。赤ちゃんのように味方を信頼しきることが、彼みたいな人には必要なんだからね(注・山王戦に、疲労が限界に達した三井が、「赤んぼのように味方を信頼しきることで」活躍を続けるシーンがある)。みきは、性質だけで言うなら流川みたいな自己中自惚れタイプなんだから、ちゃんと彼のことを見て、支えてあげないとダメだよ」

 三井と流川のカップリングか……と私は唸った。確かに、どっちかといえば三井が苦労しそうな組み合わせである。双方向的な愛の育みに対して、流川が協力的だとは思えない。ホウレンソウも怠りそうだし、何かあったら一方的に「オレの責任だ」とか言うんだろう。
 流川はバスケの天才でイケメンだから自分勝手も許されるが、私にその手の技能はない。だからせいぜい頑張ろうと思う。私が愛を注いでみたかったのは三井寿だった、とようやくわかったところなんだから。

 そういえば、彼はスラダンの彩子さんがタイプだと言っていた。彩子さんでも、晴子でも、藤井さんですらなく、よりによって流川ジャンルの人間が釣られてしまって申し訳ない限りである。それも、バスケもしないのに、一人で走り回って勝手にバテる上、ネット上で精神的露出狂芸をするとんでもない流川だ。でも、彼の「愛したい人」と「愛されたい人」もまた違うのかもしれない。そうであることに望みをかけたいと思う今日この頃。
 好みのタイプは彼みたいな人です、ハイ。

 

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。