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 ※阿波しらさぎ文学賞一次予選通過作品

 今日、恋人に別れを告げられた。
 勢いよく水が流し込まれる洗い桶。さっきから私はずっと飽かずにそれを眺めている。蛇口のレバーをめいっぱい上げているので、水面は上下に激しく弾んで、あっちこっちに滴を飛ばしている。流し台はもちろん、私のお腹らへんにも、食器洗剤の容器の列にも、その先のキッチンカウンターの台の上にまで。あとであちこち拭かなあかん。そうわかってるのに、蛇口を締めようとは思わない。私の目はミニチュアの滝壺に釘付けになって、全然別のことばっかり考えている。
 桶には、茶碗と皿と汁椀と湯呑みと、ぜんぶ色違いでふたつずつ入っている。大した分量でもないのに、私はいつも桶いっぱいに水を張る。その中でがちゃがちゃごとごと洗ってゆすいで、最後に小さな流しから溢れ出るんとちがうかなっていうほどの水をひっくり返すのが、洗い物における私の最大の楽しみだ。ぐるぐるぐるって、何重もの大きな円になって水が排水溝にのまれていく様は、郷里の鳴門で観たあの渦潮を思い出す。
 あとにもさきにも、私が渦潮を見たのは小学三年生の夏一度きりで、それ以外は地元のニュースが始まるとき、お決まりの音楽と流れる映像くらいでしか見たことない。渦潮は徳島でも有数の観光スポットだけど、地元の人間はまあそんなもんだと思う。家から車で十分の海に、世界でも珍しい渦が巻いてたって、そうそう観に行こうという気にはならない。よそから客でも来るなら案内するかもしらんけど、あいにくうちは父も母も人付き合いの良い方ではなく、親戚らしい親戚もいないので、そういう機会にも恵まれなかった。
 ようやく桶に水が溜まって、私は蛇口レバーを下げる。それから、食器を洗い始める。
 恋人は、ほかに好きな人ができたと言った。彼と付き合って五年。喧嘩もしたことがなく、はたからみたら順調だったと思うけど、私はいつかこうなるんちがうかなと思ってた。
 半年くらい前、私は彼に訊いたことがある。
「ねえ、難しい外科手術するときってどんな気分? 高揚する? それとも怖い?」
 三代続く開業医の家系だけど、実家はどうせ兄が継ぐからと気ままに大学病院で勤務医を続けている彼は、いかにもいいお家のぼんぼんという感じだった。たまたま同じ病院で事務をしていて知り合い、彼のそういうとこが良くて付き合ったのだけど、彼の答えは私の想いを萎れさせるに十分なものだった。
「そりゃ怖いに決まってるよ。ひとの命を預かってるんだから」
 彼の性情や普段の言動からすれば、それは極めて妥当な答えだった。綺麗で上品な母親に、声なんかいっぺんも荒げられたこともなく育てられただろう彼が、ひとの生死の別れ道を前に畏怖を感じるなんて、ちょっと考えたらアホでもわかりそうなことだった。
 でも実際、私は彼の答えをつまらんと思った。そして、自然に距離を取るようになった。
 彼に好きなひとができたのは、だから当然の帰結だった。しゃあない。心からそう思う。
 さっきよりはやや絞った水で食器を洗い流し、水切りマットに並べ終えたところで、私は小さく息をついた。さあ、メインイベント。泡だらけの桶を両手で抱え、思い切り力任せにひっくり返す。
 じゃばーっと大きな音ともに、流しいっぱい水が満ち、やがて中央の穴へ向かってぐるぐると回り始めた。ああ、渦巻いてる、渦巻いてる。洗剤の泡は、ちょうど良い彩りを添えて、水の動きを教えてくれる。今日がどんな日だったかもすっかり忘れて、私はいつの間にか水の輪に見入っていた。
 同じだった。暗い穴にのまれていく水は、あの夏の日見た渦潮と、同じ動きをしていた。
 そしてそう思った途端、私の目の前にあるのは、もうちっぽけな流しではなくなった。
 雨の降る海。いつもより黒ずんだ青が、とぐろを巻くように大きな渦を構えてこちらを見据えている。
 知らず私はその渦の中に意識を吸い込まれていた。渦の先に広がるのはあの夏の世界。否応なく、私は記憶の海を遡っていた。

さきもえも、渦潮観たことないやろ。これから行ってみんか?」
 父がそう口にしたのは、夏休みも終わりに差し掛かった平日のことだった。
 その日、父は有休を取っていた。いつもなら休みはずっと寝てて、家を出たりしないのに、その日は様子が違った。前の日に、競艇で少しばかり勝ってたのかもしれない。とにかく上機嫌で、朝起きるなり出かけるから服を着替えろと、私たち家族を急き立てた。
「え〜、こんな日に?」
 不満を漏らしたのは私でも妹の萌でもなく、母だった。細く描いた眉の根があからさまに寄っていた。さっきから、小さな雨粒が居間の窓をひっきりなしに濡らしている。母の主張は正当過ぎるほど正当だった。
「こういうもんは行くと決めた日に行かな。近くやと、なかなか行く機会もないんやし」
 父の言葉に、母は唇を真横に引き結んだまま、もう何も答えなかった。今は上機嫌でも、あれこれ言い募れば、途端に父が癇癪を起こすということを、母も短くはない結婚生活で心得ていたのだろう。
 ひとりだけ気分上々の父が運転する車に乗って、私たちは家を出た。鼻歌まで歌う父とは真逆に、ワイパーは忙しなく仕事をしている。大毛島に入って海岸の白い砂浜が見える頃には、海風もあり、窓を叩く雨の勢いが一層強くなってるように思えた。
「観潮船、中止になってるんちゃう?」
 母のささやかな抗議にも、鼻歌は途切れることがなかった。車はしゃあしゃあと美術館を通り越し、目的の場所へと滑り込んだ。
 『うずしおのりば』と書かれた薄茶色い建物は、まだ比較的新しかった。ガラス窓は観光地らしく、阿波踊りやら、ヴォルティスやらのポスターで賑わっている。だがそれらが虚しく映るくらい、周囲には人っ子ひとり見当たらなかった。
 ちょっと券買うてくるわ、と言い捨てると、父はひとり颯爽と車を降り、雨などものともせず、建物の中へと入って行った。
「ほんま、あのひとは。言い出したら全然聞かへんのやから」
 母が低くごちた。
 我が家の全権を事実上握っているのは母だった。家のことは一切、母の意向によって取り仕切られていて、父は所詮『お飾り』に過ぎなかった。私も妹も、常に絶対服従を誓うのは母だった。
「お父さんのああいうとこ、ほんま厭」
 こういうとき、母の機嫌を取るのは妹だった。母のお気に入りの妹。母に似て愛らしい顔立ちをした妹。その大きなひとみに覗き込まれて、母の頬が少し緩んだ。
「萌もそう思う? あのひとはいつも衝動的で、やることに何の理由もないんよ。あんたはあんな男とは絶対結婚せられんよ」
 二歳年下の妹は、自分が何をすべきか明確に把握していた。母から不満を上手に引き出し、適度な合いの手を入れて母の吊り上がった眦を和らげる。私はふたりの会話をじっと聞いていた。妹のように立ち回れない私は、父の次に母を苛立たせる対象だった。余計な口を挟んで母の機嫌を損ねては元も子もない。
 私は口を閉ざしたまま、自分のワンピースの生地に視線を落とした。私と妹は色違いのワンピースを着ていた。妹はピンク。私は水色。母は娘たちによくそうやって色違いの服を着せたが、いつもピンクは妹だった。私は水色とか黄色とか、ちょっとましなときで紫とか、とにかく『ピンクじゃない方』。
 五分も経たないうちに父は戻った。まもなく出航らしく、父に促されるまま、私たちは車を降り、乗り場まで小走りに駆けた。
 船に乗るなり、渦潮はやっぱデッキで観なあかん! と父は迷いなく船縁へと寄った。しょうことなし、私も細い手すりの前に立つ。
 期待が俄かに兆したのはそのときだった。
 視界をたっぷりと満たす黒い水面。雨粒はそこに次々と穴を空けていたが、海はまるで不死身を証明するかのように空いた先から穴を塞いでいく。その不敵な様が潮の匂いと相まって、得体の知れない高揚を私に齎した。
 だが、それも一瞬で潰えた。船がゆっくり発進し、加速し始めると、激しさを増した雨の弾丸が、私たちめがけて容赦なく飛んできた。四人並んで縁に立っていた私たちは、ことごとく被弾した。母の横髪も、父の青い半袖シャツも、そして私と妹のワンピースも、見事にずぶ濡れになった。
「ほなから厭やったんよ!」
 母の赤い唇から、ついに火柱が噴き出した。
「こんな雨の日に渦潮観に行くやなんて。ほんまに考えなし。衝動でばっかり動いて!」
「なんやその言い方! こっちはせっかく休みやから、どっか連れてってやろうと思て」
「あんたほんま何様? 休みに重い腰上げてわざわざ連れていってくださったところがここなん? そんで家族総出で雨晒しか。いい加減にしてよ、アホちゃう」
 あんたっていつもそうよ。あとさきなあんも考えんと、思いついたことして。この前、眉山行ったときやってそうやったよな——。
 母の唇からはとめどなく溶岩が溢れ、辺りかまわず火花を撒き散らす。いくら雨が打ちつけようと、まるで収まる気配はない。
 そんな母を尻目に、妹は反対側の縁の方へとふらふらと歩き出した。
 私は妹のあとを追った。妹は手すりを持って、覗き込むようにして海の方へと身を乗り出していた。船はすでに大鳴門橋の真下あたりまで来ていた。黒い波がぶつかり合い、せめぎ合って、次第に大きな回転を生み出す。妹が見つめるのは、方々で巻く渦の中でも特に大きいものだった。白い泡が輪郭となって幾重もの円を描き、この世のものすべてのみ込んでしまいそうな勢いで飛沫しぶきを立てている。
「咲ちゃん観て。渦、めっちゃ巻いてるわ」
 妹の声はどこか浮世離れして響いた。デッキに降り込む雨も、すぐ後ろで飛ぶ母の罵声も、ぜんぶ別の宇宙の出来事みたいだった。
 私もいつのまにか、妹の世界にいた。雨も母の声も遠ざかって、私の前には今、大渦と妹の背中だけがあった。ピンクのワンピースを着た薄い背中。不意に自分の中で、それまで想像もしなかった考えが頭を擡げた。
 今、妹の背中を押したらどうだろう。
 あの背中を、力任せに突き飛ばしてやったら。妹はきっと落下する。そうしたら、あの細い身体は丸ごとぐるぐるっと、渦にのまれてしまうんやろか。のまれたら、どうなるんやろか。もうすくい上げられんのやろか。泡に食いちぎられて、あの可愛らしいピンクのワンピースごと、海の底の底の方にまで引きずり込まれてしまうんやろか。
 思うだけで脳が蕩けた。それは、妹が憎いので突き落としてやろうなどという低俗な欲望とは全く違うものだった。私がそのとき感じていたのは、この場において自分が絶対主にも等しい存在であるということだった。
 今、私は妹を殺すことができる。今、ほんのひと押しで妹の生死の在り処を決めることができる。母のお気に入りの妹。ピンクのワンピースを着た妹。その命を、指先ひとつでどうすることもできる——。
 それは何物にも代え難い恍惚だった。
 私の指先は、妹の背中へと伸びていた。妹は無防備に、無邪気に渦を覗き込んでいる。咲ちゃん、渦ってほんまにこんなんなんやな。ニュースのとき映っとんのと一緒やわ。声はほんの少し笑っていて、ピンクのワンピースは濡れてすっかり色が変わっていた。
「何回でも言うわ! あんたは衝動的に行動して失敗ばっかのどうしょうもないアホ!」
 ひと際大きな声が耳をつんざき、私は指を思わず引っ込めた。母の靴音が荒々しくデッキに鳴り響く。あっという間に母は私と妹の腕を掴んで、船室に入るよ、と引っ張った。
 びしょ濡れの身体で三人、船室の椅子に腰掛けながら、母はまだ文句を垂れていた。何やってな。衝動的にされたら困るんよ。ちゃんと計画があって、理由があって、そうでないとついていけんわ、アホらしい。
 妹はもう、さっきみたいに母にお追従する気はないようだった。窓の外を見つめる妹はやはり浮世離れして見えた。その横顔を見つめながら、私はこの子の背中を押すのにも、やっぱり理由や計画がないとあかんのかな、とだけぼんやり思った。

 まもなくお風呂が入ります。流しの横の給湯器がそうアナウンスして、私は我に返った。
 目の前に広がった海も渦も消え、桶の水はとっくに全部排水溝に吸い込まれている。だが給湯器に灯ったランプが、まだひとつ楽しみが残っていることを私に教えてくれていた。
 ごめんな、咲ちゃん。改めてあのひとからも話あると思うけど……うちら、付き合うことにしたんよ。
 先週、家にやってきた妹は大して申し訳なさそうな顔もせずそう告げた。それから言い訳みたいに、のろけ話みたいに、自分のことを母そっくりの赤い唇で捲し立てた。
 前に咲ちゃんに彼氏紹介してもろたやろ。あのあとすぐ、連絡もろたん。咲ちゃんが最近冷たいんやけど、心当たりないかって。そんで色々相談に乗るようになって、いつのまにかこんなことになってしもて。咲ちゃんとはここ何ヶ月も自然消滅みたいになってるけど、きちんと一回話せなあかんて彼も言うてた。そのうち何か言うてくると思う。
 衝撃はなかった。怒りもなかった。ピンクのワンピースだって、いつも妹のものだった。それで良かった。だいたい私、ピンクそんなに好きやなかったし。
 むしろ私の胸を占めたのは、もっと別のことだった。
 これで理由ができた。
 私は妹を渦に突き落としてもええ。
 あの日叶わなかった願いを、叶えてもええ。
 今頃、眠り姫はバスタブで安らかに夢を見ているはずだった。別れ話のあと、ひと晩ゆっくり眠りたいからと彼に処方してもらった睡眠薬を、私は妹に飲ませた。あらかじめ妹を家での食事に誘う計画を立てて。
 私は想像する。バスタブになみなみ張った湯。栓を抜けば、それはぐるぐるぐるっと渦を巻くだろう。本物の渦とはちゃうけど、まあしゃあない。それでもバスタブの渦を見るとき、きっと私はあの日と同じ恍惚に包まれるに違いないのだ。
 私はつい口元を綻ばせた。
 その横で給湯器が、『お風呂が入りました』と無機質に告げた。

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