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青と青

※第6回阿波しらさぎ文学賞 一次通過作品
 
 ふわりと打ち上げられた感覚があって、空の青が間近に広がった。雲ひとつないという形容がぴったりの、眼に沁みる青。吸い込まれるような夏の青だ。
 事実、私は空に吸い込まれようとしていた。自分の身体がそれを望んでいるのが、よるべない意識の中でもはっきりとわかった。私は一段と大きく眼を見開き、青を縁から縁にまで収めた。それから、せめても空の端きれをつかもうと——手を伸ばした。

 短いトンネルを抜けた途端、それまで曲がりなりにもあった市街地の様相は影を潜め、代わりに白い砂地と夏の陽にゆらめく海が現れた。海を挟んだ向こうには、深い緑に染まった淡路島が白い風車を髪飾りにして控えており、渦潮で有名な鳴門海峡を跨ぐようにして、ここ大毛島との間に橋が渡されている。観光客なら少なからずその美しさに眼を細めるだろう景色。だが生まれてから一度も鳴門を離れて暮らしたことがなく、加えて幼い頃から淡路島に住む祖父母の家へ向かうため幾度となくこの道を通った身からすれば、それは何の変哲もない景色だった。
「綺麗なところですねえ」
 心を読んだように、助手席から声が漏れた。
「あっちに見えるの、大鳴門橋ですよね? じゃあ、渦潮ももう近くですね。徳島って言えば、やっぱり阿波踊りと渦潮じゃないですか。わたし、夏休みの旅行を決めた時から、この観潮船を一番の楽しみにしてて」
 東京から来た旅行客というだけでつい気後れしてしまい、私は彼女に曖昧な微笑みを返すのがやっとだった。友達と阿波踊りを見に行くという娘を送った鳴門駅で、観潮船のりばまでの移動手段を訊ねてきた彼女に、どうして車で送っていきましょうかなどという親切心を見せたのか。自分でもわからない。ちょうど自宅への帰り道であり、その付近まで行く次のバスを待つのが短くない時間だったことを考慮しても、普段ならまずありえない行為だった。
 彼女の方はしかし、私の水面下での波立ちになど全く気づかない様子だった。微笑みは微笑みとして、素直に受け取ったらしい。相変わらず黒眼がちの大きなひとみを輝かせて、気の向くままに質問を重ねてくる。
「お店が見えるの、あれは何ですか?」
「あれは……土産物を売ってるお店やね」
「この辺でお土産物っていうと、やっぱりすだちやわかめでしょうか」 
「そうやね。今の季節やったら、たぶん、梨なんかも置いてあるんと違うかな。昔、この時期にはうちの母がお土産に、言うてよううてましたから」
 標準語を喋ることはできなくとも、なるべく相手に伝わるような言葉を選んで丁寧に答えた。それでも、ただでさえ方言のうえ、時折娘にも笑われるような古い言葉がひょいと口をついて出ることを思えば、話すだけでハンドルを握った私の手のひらはじっとりと汗ばんだ。それは、彼女がTシャツにジーンズという出で立ちであるにもかかわらず、その着こなしや、さりげなく耳もとや指に散りばめられたアクセサリーで非常に洗練されて見えるのに対し、どうせ車から降りることはないだろうと踏んでいた自分が、首元の伸び切ったTシャツにハーフパンツという家着姿そのままで彼女の前に存在している気まずさにも通じていた。
「この辺の海は泳げないんですか? 全然、人影が見えませんけど」
 光る波に当てられたのか、彼女は目映そうに眼を眇めた。ハンドルの革に、ますます汗が浸透してゆくのがわかる。
「その先に見えるリゾートホテル。わかります? 今泳げるんは、そこのプライベートビーチだけなんです。昔は、ここらも海水浴場として開かれてたんですけど」
「なんで開かれなくなったんですか」
「詳しくは私もよう知らんのです。いつからかここも、その隣りの浜辺も遊泳できんようになってしもて」
「残念ですね。こんなに綺麗なとこなのに」
 海の向こうで風車が風に吹かれるまま、ゆったりと回っている。そこから遠くない場所に祖父母の家はあった。子どものころ、帰省でこの道を通るたび、まもなく優しく笑顔で自分を迎えてくれるだろう彼らの顔を想像するだけで胸が高鳴ったことを思い出す。
 その記憶に導かれるように、私の唇は意図せず動き出していた。
「海水浴といえばね、私、この辺りでは忘れられんことがあって」
 そこで我に返り、言葉を区切った。旅先でほんの少し袖振り合っただけの相手の昔話など、彼女に聞く義理はない。
 だが、思いがけず彼女の眸にすっと光が差し込んだのを、私は見逃さなかった。その温かな色味に励まされ、喉の奥で出番をうかがっていた言葉たちが声になって押し出される。
「……この次の次の信号かな。横断歩道を渡ろうとして、海水浴に来てたほかの客の車に跳ね飛ばされたんです。五歳のとき」
「車に? 無事だったんですか。怪我は?」
 この話をするとき、誰もが見せるのと同じ反応を彼女も見せたことが妙に嬉しくて、私はつい口もとを綻ばせた。
「無事でした。怪我も膝を擦りむいただけ。側にいた父や、さっき通った土産物屋で買い物して店から出てきたばっかりやった母は、『これは死んだ』と思たそうやけど」
「なんでそんな小さな傷で済んだんですか」
「なんでやと思います?」
 信号が赤に変わったのをいいことに、私は彼女の顔を悪戯っぽく覗き込んだ。
 彼女は眉間に皺を寄せ、細い首を傾げていた。ショートカットの裾からのぞく耳朶には、ラピスラズリのひと粒ピアスが見える。
「ダメだ。わかりません」
 彼女が白旗をあげたのと、信号が青に変わったのはほぼ同時だった。私は隠しきれない満足が声に混じるのをどうしても抑えられなかった。
「私、そのときうきわをしてたんですよ」
「うきわ?」
「そう。真新しい水色のやつ。——さっき、母がお土産買うてたって言うたでしょ? 淡路の祖父母の家に行く前でね。そういうときって近所の親戚や知り合いなんかにも買うんで、どうしても時間がかかって。その間、私が店でじっと待てんと思たんやろね。父がちょっと気晴らしに海でも見にいこうって」
 話しているうちに、車はくだんの信号へと差し掛かった。信号がまた赤に変わる。けれど海水浴で賑わっていたかつてとは違い、横断歩道を渡る人は今ひとりもいなかった。
「私はてっきり泳げるもんやと勘違いして、車のトランクに入れてたうきわを取って、すぽっと胴に入れて走り出したんです。ふたりでそこの防波堤の空いてるとこ——見えます? あの下の階段から浜辺に出て」
 目の前に、記憶の中の父と私がはっきりとした形を持って現れ出た。浜辺は今を盛りと海水浴客で溢れ返っていた。鮮やかなビーチパラソルの下で休暇を満喫する大人たち。砂上を縦横無尽に走り回る自分と同じような子どもたち。人間だけではない。砂浜に身を埋める蟹や階段を這うフナムシ、波の上を跳ねる魚まで、有象無象の生命体すべてを包み込むようにして、海は青く光り輝いていた。
「そこで初めて父に『今日は泳がへんよ』って言われてね。私、がい・・に怒ったんです。絶対泳ぐってね。駄々をこねてどなにもならん私のこと、父は引っ張って、もと来た階段を今度はまた上って——」
 階段の先の信号は、まだ青だった。泣き喚きながらも、私は確かにそれを視界の端に入れていた。
 突然、私は父の手を振り切った。私が走り出した時にはもう、信号は赤に変わっていたらしい。だが必死だった私は気づかなかった。もう少しで渡り切るというところで、私の身体は左手側から走ってきた車に勢いよく跳ね飛ばされた。
「ほんまにボールみたくポーンと飛んだんですよ。その日は空が物凄い綺麗でね。こんなん言うたら笑われるかもしれんけど、私、宙に浮いたまま、その空が青いのをえらいじっくり眺めたような気がするんです」
 信号が青になり、私はアクセルを踏んだ。すでに過去は目の前から消え、自分たちのほかには誰の姿も見えない道が陽炎で揺れていた。普段、決して車もひと通りも少ない道ではないのに、今日だけは設られた静寂に、行手の一切が支配されているようだった。
「さすがに地面へ落ちたときは結構な衝撃があったんですけど、うきわがクッションになってくれて。病院でいろいろ検査もしたけど、膝の傷以外は、どこも何ともなかったんです。——ほんまに、運が良かったんやろね。あとで人伝てに知ってびっくりしたんやけど、私の事故の何日か前に東京から旅行に来てた私と同い年の女の子が、やっぱり同じ場所で車に跳ねられて亡くなってたらしくて。それ聞いたうちの父が不謹慎にも、こいつは強運の持ち主や、将来名を残す人間になるかもしれんなんて、あほみたいなこと言うたりして」
 彼女の眼に映る自分を充分に意識した上で、最後は無理やりひねり出した笑いを被せた。すっかり年老いた父は、そんな言葉をかけたことなど、とうに忘れているに違いない。言われた娘はコインの裏表のような自身と亡くなった少女を思い、凡庸に甘んじた自分の人生に今も途方に暮れることがあるというのに。
 彼女は無言のままだった。すでに私の話など聞いていないのかとちらりと横目をくれると、ダッシュボードの辺りに視線を落とし、何かを考え込んでいるふうだった。
 車は進み、やがて淡路島へと続くインターを示す緑の看板が近づいてきた。
「——ここらで降ろしてもらえませんか?」
 信号でちょうど車が停止したのを見計らったように、彼女が告げた。
「え? こんなとこで? まだ観潮船のりばはだいぶ向こうやけど」
「構いません。そのあたりの歩道、どこでもいいんで、車を停めてもらえませんか?」
 強い語気に気圧され、私は言われた通り車を歩道の横につけた。車が停まるなり、彼女は外へ飛び出した。あとを追おうとして、空のシートの上に何かが転がっているのが眼につく。咄嗟に私はそれを拾い上げていた。
「あの、私、何か気に障ること言うたかな」
 後部座席から降ろしたバックパックをおずおずと差し出す私に、彼女は一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。しかしすぐ意図を察したのだろう。荷物を受け取るなり屈託のない笑みを浮かべた。
「いいえ。全然です」
「でも、途中から黙ってしもうて。方言丸出しで、つまらん話をしたからそのせいかと」
「まさか。面白かったですよ。とても」 
 言葉に嘘偽りがないことは、その眸の柔和な色が証明していた。だが、それなら彼女がここで車を降りることの説明がつかない。
「あと少しやし、私、やっぱり観潮船のりばまで送っていきますよ。なんぼ都会の人やから言うても、歩いたらまだ結構あるし」
 半ば意固地になって食い下がる私に、彼女は笑顔のまま小さくかぶりを振った。
「わたしはいいんです。でもあなたは——あなたは、ここから橋を渡らないと」
「橋?」
 意味するところが理解できず、私は彼女の言葉を繰り返した。彼女は海の向こう、風車の髪飾りをつけた島を指差す。
「ここはわたしたちの棲む町だから。あなたはあちらへ帰らないと」
 彼女の口調には有無を言わせない強さが滲んでいた。反駁しようと口を開きかけたが、頭の中に浮かんだどんな言葉も上手くすくい取ることはできなかった。結局、私は再び車に乗り込んだ。馬鹿馬鹿しいけれど、彼女がじっとこちらを見据えていて、橋を渡る以外の選択を許してくれそうになかった。
 エンジンをかけたところで、私は自分が彼女の落とし物を拾い、返していないことに気づいた。慌ててパンツのポケットを弄り、ルームミラーに映るべき彼女の姿を探す。
 だが、そこに彼女の姿はなかった。
 代わりにいたのは女の子だった。年は四つか五つほど。青いワンピースを着て髪をひとつ結びにしたその子は、黒眼がちの大きな眸を寂しそうに笑ませてこちらを見送っていた。
 私は自分がもう引き返せないことを悟った。そのまま、車を発進させる。
 女の子はいつまでも私の車を見送っていた。やがてその姿が遠ざかり、完全に見えなくなったところで、声が流れ込んできた。ついさっき、この辺りの土産物を訊ねたのと同じ声。それが、耳ではなく意識に直接語りかけるように、優しく響いた。
 あなたはこれから何にでもなれるよ、と。

 誰かが名を呼ぶのが聞こえた。肩を大きく揺さぶられ、同時に頬を軽く叩かれる。私は閉じたまぶたをひどく重く感じながら、それでもゆっくり見開いた。
「やった! 目え覚ました!」
 声を上げたのは父だった。浅黒く張りつめた肌。真っ黒の頭髪。私は自分の視界に映し出されたものの意味するところがにわかには信じられず、ただ眼を見張るしかなかった。
「もうこの子は! お父さんの手を振り切って走るなんて、ほんまにあほなんやから!」
 父の横から捲し立てたのは母だった。その白い顔には皺ひとつ見当たらない。夏の陽を受けた輪郭は、若さゆえの反射で光っている。
 自分の身に起こったことを、まだ把握できていなかった。胴に巻きついた水色のうきわは、少し萎んで見える。うきわの横に投げ出された手のひらは、さっき空の端を掴もうとしたときのまま、固く握りしめられていた。
 その指をひとつずつ、ゆっくり開いてみる。
 ——現れたのは、ラピスラズリの粒だった。
 堪らず眼を逸らした。視線を横断歩道から防波堤の隙間へと伸ばす。その向こうに今しがた限りなく近づいた空と、はるか地平の彼方で空との境界を溶かした海が広がっていた。
 青と青。
 目に痛いほど鮮やかなそのふたつは、けれど対極の顔を持ってそこに鎮座していた。
 気づけば涙が溢れていた。そうして、涙にかすんであらゆるものが輪郭を失くした世界で、私はふたつの青が混じり合う場所にいつしか見知らぬ少女の姿を重ねていた。
 髪をひとつに結んだ青いワンピースの少女。
 そのワンピースの裾が、波に煽られてひらりと翻ったような気がした。

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